自己紹介

俺は情けない男だよ、救いようのない、箸にも棒にもかからない程のクズさ。中学受験でやっと入った大学付属の中高一貫を高校一年で辞めてさ、高卒認定を取ったは良いものの、大学受験向けの勉強は殆どせず挙げ句の果てに受験を放棄、自動的に一浪突入。現役が独学で駄目だったから、一浪はペースメーカーの意味でも予備校に入ろうと思って河合塾に入塾したよ、しかしここでも上手くいかなくてさ、俺の薄氷の如き脆弱な意志に、親は満腔の期待を込めて前後期分の70万を振り込んで送り出したってのに、二週間も経たずして生活リズムの維持に失敗、自然と脚が予備校に向かなくなって現役時と同様独学にシフトしたんだよ。考えてみれば当然なんだが、現役時に自宅での独学に失敗したんだから、一浪になって成功するわけが無いんだよな、それでも俺は自分の努力の才能に一縷の望みを懸けて予備校に頼らず、チューターの電話も全て無視して、独力で学習を進めていったのさ。これが行けなかった、最初は良かったんだよ、ただ3ヶ月が経過したあたりから途端にガス欠して、1日の勉強量が急減、何もしない日が徐々に増えていった。ここからは容易に想像がつくだろうが、勉強しない日が増えれば増えるほど、知識の喪失量は大きくなる、つまり挽回に際しての労力も嵩んでいくんだよな。それが手にとるように分かるから益々やりたくなくなって、結果およそ受験生とは思えない怠惰で自堕落、非生産的な日常を送る羽目になる。この頃やってたことはなんだったかな、読書してたな。読書、俺は近代日本文学なんかをよく読むんだが、文学は便利だよな。娯楽としても使えるし、教養本的な一面もあるから、勉強してい無いことへの罪悪感を薄める免罪符としては都合が良かったんだよ。文学に失礼だよな、太宰や漱石に謝りたいよ。結局一浪時もこんな感じで読書と映画鑑賞に時間を浪費する毎日だったから、当然受験する気にならず、親に言われて半強制的に出願させられた東洋大の文学部すらも、入試当日、昼夜逆転が酷くて起きられず欠席したんだよ。勿論受かるとは親も思ってなかっただろうが、俺がその一年受験生であった証拠が欲しかったんだろうな、その一年に賭けた金や時間、或いは期待が全て水泡に帰したと親も認めたくはなかったんだろうな。本当に済まないことをしたと思ってるよ。で、二浪目、今年のことだな。高校卒業してれば大学入学はもう断念して就職するってことも考慮する状況だけど、いかんせん高校中退、つまり中卒だからどこも就職先なんかないし、家から追い出したところでどうにかなるものでも無いから、仕方なく親も二浪を認めてくれたんだ。それで今年は現役時、一浪時の反省を踏まえて予備校や自宅で勉強するのはやめようと思ったんだよ、だから早くから、と言っても4月からだが、有料自習室を借りて(これも当然親の金だが)勉強を開始したんだよ、これが割と良くってさ、まぁ単純に環境だけの話じゃなくて、今年はマインド的な部分でかなり変革があってさ、今までは実力の伴わない唾棄すべきプライドがあって、MARCH未満はクソだとか本気で思ってたんだけど、そんなこと言ってられない状況に追い込まれて初めて自分の等身大の実力を見つめられるようになってさ、身分相応の大学に行けるよう無理のない範囲で努力しようと決心できたんだよ。まぁ大学受験成功者、或いは高邁な志を持ち目標に向かって着実に努力できる勤勉な人間からしてみたら、自分に課すハードルを下げて努力を放棄しただけに見えるだろうし、実際そうなんだけどさ、努力の才能ってあるだろうし、あるかも分からないものにすがって2年も無駄にした訳だから、これは取り敢えず無いと判断して先に進んだ方が良いなと、妥協的かも知れないけど判断したんだよ。話は戻るけど今までよりも確実に1日あたりの勉強量は減ったし、意識も低いのかもしれないけど、一つ言えるのは継続性は担保できてるって事なんだよ。塵も積もればじゃないけどさ、1日10時間勉強したとしてもそれが3ヶ月しか続かなかったら、大学受験というフルマラソンでは戦えないわけで、それなら1日2.3時間と短くても良いから完走しようと、遅くても良いから亀としてやり遂げようと思ってるんだよ。どうかな?今の俺間違ってないよな?確かに全力を出し切ってない、本気で受験に向き合っていない感覚はあるんだけどさ、これが大学受験という競技において自分の持てる能力を最大限発揮する唯一の方策だと俺は信じてやまないんだよ。だから他人に非難されようと辞める気はないし、どんな結果に終っても受け入れるつもりなのさ。なんだか前半と後半でだいぶ文章のテンションが変わっているけど、大丈夫かな?ちゃんと読んでくれているかな、まぁ読んでいなかったにせよ、自分の内面を整理する機会と捉えて自己肯定する用意は出来てるけどさ。

家庭内争議のゆくえ

その日の夕食はビーフシチューであった。仕事から疲れた表情で帰ってきて、一度も座ることなく食材を並べた台所に立った母は、いつものように家事労働を全くと言っていいほどやらない父に対して愚痴をこぼしつつ、料理を開始させた。偶然仕事が休みで一日中リビングのソファーに寝っ転がりながらテレビを見ていた父は、多少の反省と悔恨があるのか黙っている。しかしながらここで息子である私が要らぬことを口走ってしまった。
「親父も一日家にいたなら、飯くらい作っておけばよかったのに」
この発言が争議の火種となった。息子という味方を得た母は愚痴をますますヒートアップさせて、父を攻撃する。自ら家事労働に従事することに面倒臭さと恥しさを感じるくらいのプライドを持つ父だから、この攻撃には流石に耐えかねた。
「じゃあ、外で食ってくればいいんだろう?そんなに言うなら作らなくていいよ」
私はしまったと思った。私が何も言わなければ母の攻撃が増大することはなかったし、それによって父が我慢と道徳心の作用の限界に達することもなかった。しかも発言者が私であることから、父母の怒りの矛先が私に向いてこないことも問題だった。成人を間近に控えた年齢といえども父母にとってはやっぱり子供であり、対等な関係ではない。蚊帳の外にいた部外者がいきなり現れて、火に油を注いだ形となってしまったのだ。父が出て行った後、母はシチューを作るために昨晩から用意していた食材を包丁で切り分けながら涙を流していた。
「あなたがアレを言ってくれてよかったよ、良いきっかけを作ってくれた。とんでもないエゴイストなのよあの人は。もう潮時かも知れないわ」
今までギリギリで支えてきたアンバランスなジェンガの楼閣が隙間風に吹かれていとも簡単に壊れてしまった。私は戸惑いを隠せずにいたが、遅かれ早かれ崩壊してたわけだから気にすることないんだと、自分を慰めつつ、自室にとぼとぼと戻って行った。ちなみにその日のビーフシチューは争議の勃発が功を奏してか、煮込み時間が普段の倍近くになったらしく、皮肉にも非常な美味に仕上がっていた。
それからというもの父母は全然口を利かなくなってしまった。所謂家庭内別居というやつであろうか。以前から彼らには家庭内争議勃発後の1週間程度を冷却期間とする、換言すればプチ家庭内別居のような習慣があったのだが、今回に限っては1週間などという短期間で済むようなものではなく、最終的なディボースが容易に想像できるほど本格的な分裂であった。私と母の生活は普段とあまり変わることなく、寧ろ母の精神的疲労が緩和されたためか、普段よりも健康的かつ弛緩的な様相を呈していたように感じる。然しながら父の生活は激変である。母の担っていた家事全般を放棄された必然として、食事は勿論のこと洗濯までも父は自分で済ますようになった。これにより自宅において父を目撃する頻度は、ポケモンにおける色違い遭遇確率に相当するレベルにまで落ち込んだのである。
そして後日、今後の父母の関係を決定づける事件が起こってしまった。母の入院である。詳しいことはよく分からないが卵巣のあたりに腫瘍があるらしく、放置しておくと悪さをする可能性があるため今のうちに除去しておこうという旨の手術らしい。生還確率はこの上なく高く安全性の担保された手術ではあるが全身麻酔をするため、家族の承諾を得る必要があり、その書類への署名を母は私に求めた。
母の入院期間中、私は震えていた。私にとって母と言えば、毎朝5時に起床して飼い犬の散歩に出かけ、それから御茶ノ水にある会社まで満員電車に揺られながら出勤、退勤後も通勤時と同じくラッシュアワーに巻き込まれ、帰宅したら座る暇なくキッチンへ直行し私や父の食事を用意する、1日のタスクを全て消化し終えてホッと一息床に就くのは大体23時頃だろう、そんな生活を現在の住所に越して来てから15年近くも続けている正に超人的な存在であった。その母が5日間もの間、入院という極めてシリアスな重大事を理由に家を空けるのだ、今まで旅行やら家出やらで家を空けたことは何度かあったが、それとはやはり何か違うのである。失敗可能性の低さから言って、街中で交通事故に遭うと同程度だ、心配する必要は微塵もあるまい、と頭では分かっていても、母の永遠の不在が確かな悪意を持ってこちらに忍び寄って来るのであった。
その一方で父は、母の所在を私に一切尋ねなかった。どうやら母から入院の旨は一切聞かされてないようである。大方また何処かへ友人と旅行にでも行ったのだろう、と推理していたに違いない。私との会話も
「いつまでひとり?」
「金曜まで」
ただのこれだけである。
私も隠していたわけでは決してない、「where is your mother ?」の一言さえあれば答えようと思っていたのだ。然しながらこれがまたしても私のミステイクであった。後から分かった事だが、母は父が心配するのを期待していたのである。ここで私が知らせておけば、夫婦仲の改善する機会を設けられていたのかも知れないのだった。
母のサナトリウム生活が無事に終わり退院を迎えたその日、母は私に父の動向を尋ねた。上記の内容を包み隠さず説明し、母の居所を聞くに聞けなかった男性特有の自尊や含羞にできるだけの理解を求めたが、母は心配よりもプライドや含羞を優先してしまう男の心理に甚だ失望した様子であった。
私はこの数ヶ月間、父母の関係の変遷を見つめ、20年以上の関係継続をもってしても消えることのない人間本来のエゴイズムに一抹の恐怖を感じた。愛情の喪失と言えばそれまでかも知れない。しかし彼等がもっと素直な心を、互いに伝えることが出来たなら、今のような破局を迎えることは避けられたかも知れないのだ。現在母は最も有利な内容でディボース交渉を行うべく、財産分与等さまざまな情報の収集に励んでいる。弁護士やディボース経験者の知恵も借りる予定だとか。父母の離合集散に容喙するつもりは寸毫もないが、ただ一点、私の学費についてだけは潤沢な資金の調達を心の底よりお願い申し上げたい。