思考雑記

モテたいってなんなのだろうと色々考えさせられる。不特定多数の異性から好意を寄せられるというのは男としての自尊心を向上させる上で甚だ重要であるには違いないが、モテはモテを更に加速させ、ゆくゆくはそいつ自身の魅力ではなく、モテているからモテている、みたいなある種のトートロジカルな状況に発展するだろう。
企業名とか大学名などで相手を品定めする恋愛アクティブ層の女性全てに共通して言える事でもあるだろうが、このモテているからモテている、という事象に対してモテの主体たる男は果たして満足感を得ることが出来るのだろうか。
結局は他人が欲しがっているものを欲しがっているだけではないか、本当の意味で自分という存在が評価、承認されている訳ではないという事実を否応なしに突きつけられるのが、モテ現象の行き着く先なのかもしれない。

 

嫌われたくないと傷つけたくないは、全く違うようでかなり似通っている。嫌われたくないが、純粋な利己であるのは誰の目にも明らかだが、傷つけたくないも、利他の薄いオブラートを剥がしていけば、見えて来るのは利己である。言うまでもなく両者に共通するのは自己愛、つまり傷つきたくないであり、これが肥大化すると、他者との触れ合いを避けるようになる。自己愛性人格障害の患者に、ひきこもりが散見されるのもこの辺りに理由がありそうだ。
僕たちは人とまともに触れ合おうとすればどうしても他者を傷つけるし、その事実によって傷ついてしまう。しかし傷つけ、傷つけられる事を恐れていては、人生のふくよかさは獲得されない。平凡な結論になってしまうが、自己愛を肥大化させず、かと言って減弱化させるわけでもなく、ニュートラルな状態に保って、他者との触れ合いに生じるであろうさまざまな、不安や恐れ、葛藤を乗り越えていくことでしか、幸せになる事はできないのだろう。

 

自己愛を守ろうとすればするほど、自己愛を傷つけてしまう。この現象は所謂メンヘラやヤンデレ、あとはひきこもり系の自己愛性人格障害者に顕著だろう。
メンヘラの束縛やヤンデレの自己の抑圧、ひきこもりの回避傾向は、実りのある人間関係の構築を阻害し、むろん自己愛は他者からの承認や評価なしでは成立しえないため、結果として自分で自分の首を絞める事となる。ちょうど、より良く生きようとして、或いは、死を遠ざけるために、リストカッティングを繰り返していくうちに、却って病理が悪化して、死に瀕してしまう人と同じように。

 

恋人関係に於いてどこまで相手の行動を制御するべき、或いはしても良いのかというのは非常に難しい問題だと思う。俺は昨夜この問題に実際直面し、自分の考える理想的な恋愛関係について、訥々とではあるが説明を試みた。
端的に俺の立場を示すならば、完全に相手の意志を尊重するという事だ。交際相手にこれして、あれしてとか逆にこれはしないでって色々と具体的に注文をつけて、行動を制御する人たちについては感情的なレベルでは理解できるのだが、しかしながら在りたい自己像、格好つけた言い方をすれば美学として、それらを要請することは出来ない、というかしたくない。世の中のアベックは程度の差こそあれ、何かしらの相互的な束縛関係にある。明確に言語化してルールを設けていたり、暗黙の共通了解としてノンバーバルな感覚を共有していたりと、その形態は多種多様であろう。別にそれはそれでいいのだが、その束縛関係が相互の自由意志、つまり自発性や良心に基づくものなのか、若しくは単に相手の要求に唯々諾々とお互いに従っているだけなのかで、大分その関係性の意味合いが変わってくるように感じる。繰り返しになるが、俺は前者を尊重したい。言うまでもなくこれは、自己の欲望を押し付けて、相手の行動を制限し、一過性で表層的な感情的安全の確保を図ったところで、そこには何らの価値も見出せないことが手に取るように分かるためだ。相手が自分の意志で俺のことを考え、想像し、献身し、場合によっては自己の犠牲を払ったときに初めてその行為に価値は宿る、少なくとも俺はそういう風にしか考えられない。一方でこうした恋愛観は一見すると相手の自由を認めているようで、反対に不自由を課してしまっているのではないか、という懐疑の念の入り込む余地もある。判然と言葉にして要求すれば、相手はそれにただ従順に従えば良い訳で、行動の是非を検討する思考のリソースを節約出来る観点からして、寧ろありがたいくらいなのかも知れない。
だけどまぁそんなに難しく考える必要はなくて、ただ単に君がやりたい事をやればいいよというだけの事なのだが、受け取られようによっては暴力として働いてしまいかねない思考の発露である事は否めない。

 

自分の抱くあるべき、またはあって欲しい彼女像みたいなものがあるとして、その鋳型に彼女を無理やり押し込めるような真似は極力したくない、彼女のあるがままの自発性、もっと高度に言えば内発性から来る、純然たる振る舞いの全てを受け容れて、それに随伴するであろう葛藤や苦悩、心理的なギャップと対峙、格闘しながら、それでも一緒にいたいと思えるような関係を育んでいけるのであれば、そこには自ずと至上の喜びが芽生えてくるはずだ。

 

愛玩動物を可愛がるというのは、幼児を養育する事の疑似体験だと言える。動物は幼児と同様、単純かつ無垢なので、飼い主の期待通りの行動をしてくれる。幼児が親の愛情の提供に素直に応えるように、動物もちゃんと世話して、餌を与えて、スキンシップを取り、散歩にでも連れ出せば、予想通りの反応を示してくれる。
でも人間はそう簡単にはいかない、幼児はやがて成長し、親の理解を超えた存在になる。よほどAC的な生育過程を経ていない限り、子供は親からして不気味で、理解不能で、アンコントローラブルな存在として認識される事になるだろう。だからそこで、動物が必要になる。自分が与えた愛情の分だけ愛情を返報してくれる、単純で簡単で操作の容易な存在、それが自分の心の喪失を再帰的に満たしてくれる。
これは人間の弱さの決定的な証明だと考えられる。うちの家の場合、母親には元からその傾向があったが、最近は父親までがそうした、愛玩動物を過剰に可愛がり、あたかも人格がそこに宿っているかの如く話し掛ける、不気味な、人形遊びをする大人に対して抱くのと全く同様の、嫌悪感を催すような振る舞いを呈するようになってきた。
母親は別によかった、俺にとって母親は唾棄すべき低劣な存在として、少年の頃よりカテゴライズされていたから。うちの家庭には家父長制的、或いは昭和の郊外家族的な、父親を重んじなければならないといった感じの雰囲気は殆どと言っていいほど瀰漫していないが、それでも多少なりとも、父親に対して、権威、精神分析的に言えばファルスだろうか、そんなものを認めていた。だから父親の母親と同じような言動をするようになったのは俺からすると、物凄く不愉快で、同時に寂しいものでもあるのだ。
そして自分はこうはなりたくないなとも感じた。俺は子供を持ちたいという欲望を現時点であまり持ち合わせていないが、仮に子供が出来て、それが自分の理解の範疇を超えた、訳のわからない存在に成長してしまったとしても、その埋め難い懸隔と格闘しながら、なんとかコミュニケーションを図り続けていきたいなと思う。そのためにはやはり、背中で語るというような、子供から畏敬される父親であるための努力が自ずと必要となってくるに違いない。