LOST AND FOUND 4/27〜6/29

4/27 前に書いた時からかなり期間が空いてしまった。どうも、俺は日記を付けるのに向いていない。部屋から殆ど出ずに、本を読むか、スマホを触るか、陰部を慰めるかしか、していないのだから当然ではあるが。 ここ数日は俺にしては調子がいい。一月から二月にかけての、あの季節性鬱の如き、沈鬱や倦怠感が払拭されつつあるのを感じる。 人間がここまで、季節や気候に生理を支配されるのというのは驚きであるが、(ロシアや北欧、国内では秋田などの)北方の寒い地域の自殺率の高さなどを踏まえれば、不思議ではないか。

5/7 6日、初めて施設に入っている父方の祖母の見舞いに行く。下半身が全く動かず、自力で立ち上がることができないため、日中はベッドの上で寝たきりだという。加えて、口腔の筋力も弱り、話している内容はかなり聞き取りづらい。 ただ、認知症的な症状はないようで、普通に会話をすることはできるし、聴覚は割合はっきりしているらしい。
祖母の老衰を前にして、典型的な感傷気分に支配されるということはなかったが、眼前の祖母という一個人に代表される、超高齢化社会の悲惨、というものを感じずにはおれなかった。
祖母の入る施設には、寝たきりの老人はそこまでいないということを、付き添いの父親からあとで聞いたが、老人ホームのみならず病院や終末医療の現場に於いては、数多の身体に不自由を抱えた高齢者が、丸一日を寝床の上で過ごすという苦行を強いられているだろう。俺の祖母のように頭のはっきりしている老人では、尚更その傾向が強いに違いない。
延命治療や尊厳死の是非は、しばしば生命倫理や制度の濫用といった問題とセットで語られるが、人間の尊厳を欠いた状態で、ただ動物的に生かされることの暴力や理不尽、あるいは反倫理性については、絶えず自覚的でなければならない、と思う次第であった。
あるいは祖母の顔が息子である俺の父親に酷似していることも印象的であった。 人は老いて死に瀕する時、個別性や時節の装飾がすべて削ぎ落とされて、最後には、祖先や子孫という血縁的な痕跡のみが残るのかも知れない。そしてそれはあんがい、寂しくはないのかも知れない。

5/23 ここ数日の寒暖差で体調死んでてワロタ、一応21のゼミの発表は終わらせたので、あとは引き続き卒論に必要な文献を読み込んでいくわけだが果たして上手くいくか…

5/28 依然として死亡中、寒暖差にやられたと思われる。最高気温20℃前後に落ち込んだと思いきや、急激に夏日、真夏日になるので死ぬのも予測できてたが。
ひさしぶりにシュタインズゲートを見返していたが、岡部倫太郎が19歳という設定を知り、ビビる。作中で未成年は酒を飲むなというセリフがあり、くわえて東京電機大の学生であるため、19歳の大学一年か二年ということになるのだろう。そして、牧瀬紅莉栖は18歳の高校三年、大学一年(秀才で飛び級しているので学年換算は無意味だが)なのだろうか。いずれにせよ、これを初めて観た時は俺も18-19だったかと思うが、今年で齢25になるにもかかわらずあまり状況に変化のないことに我ながら嘲りを感ずる。見返していて思うが、やはりこの作品は橋田至(ダル)によって支えられている。夏の秋葉原という舞台に加えて、矢継ぎ早に繰り出されるダルや岡部のねらー的ネットスラングが、この作品のモラトリアムでまったりとした基調を形づくり、視聴者に存在しないはずのノスタルジーを喚起する。個人的には、秋葉の無味乾燥な電気街とノスタルジーの奇妙な両立を味わえるというこの一点だけでも、幾度も立ち返る価値のある作品なのだ。

5/31 久々に化物語を見返したが、暦とひたぎの著名な初デートシーンで「こういうのでいいんだよ」となった。ひたぎの性被害未遂(あるいはこれに引き続く家庭崩壊)の経緯はそれ自体、たしかに陰惨きわまりないものではある。しかし、この履歴が意図せずして背景となり、彼女の「性行為が可能になるまで(暦に)待っていてほしい」という発言が、最高級の愛の告白として実を結ぶ。彼女の人生に暗雲をもたらした当の男性的欲望を、積極的に引き受けることを暦にたいして宣言する様に、不覚にも涙を浮かべてしまったほどだ(!)。
キャラクターの不幸を恋愛のスパイスにカウントするのは、いかにも典型的な方法論であるが、典型が典型として綺麗に成功するのを見るほど心地のいいものはない。同日に初見で見たCLANNADとの落差に開いた口が塞がらないと言いたいところだが、CLANNADの批判などネットをひらけば無数に転がっているため、ここでは省略しよう。またそもそも、この作品に関してはそのような情熱も湧いてこない。

6/7 今や地方の集落などでは、人間の数よりも熊の方が多いという話だが、数十年もしたらAI搭載のロボットの数が人間の数を上回るようになる。人間は人間を相手に恋愛することをやめ、セックスすることをやめ、これらは一部の変わった人達の趣味程度のところまでいく。その時代には、人間という有限の存在を相手取って恋愛し、子供を産ませ、ありふれた別れの結末をたどることの、非人道性や暴力性が強調され、AIとの恋愛こそが持続可能で、環境や人体にやさしく、倫理的であるという価値観が普通になる。いままでの人類が抱えていた人間関係上の悩みはそこで終止符を打たれる。互いに傷つけ合いながら、それでも離れずに関係を営むことの美しさや尊さは、完全に時代遅れの遺物と化して、現代の日本に於ける"腹切り"や"ゲイシャ"と同程度の郷愁でもって語られる。その時代にも恐らく、伝統的な価値観への回帰を訴える勢力はいるだろうが、われわれ人類はAIとの共存(共依存)の快適さや楽さを手放せないので、そうした連中を「イカれたカルト」と認定し、見て見ぬふりをするだろう。
人類は緩やかな絶滅の一途を辿ることになる。女に子供を産ませるのが暴力である以上は当然であるし、そもそも同意なく子供を誕生させることも暴力である。こうして人類はみずからが人類であることを否定する。人口比でAI搭載型ロボが人類を追い抜いて、最終的には、人類が一人残らず絶滅した後の地球で、AIのみがその稼働停止の時が来るまで、環境をメンテナンスし続けるだろう。

6/17 イケメンにクズが多いのは、クズであっても許されるのがイケメンであるからだ、というのが俺の以前からの持論であったが、これは訂正される必要がある。イケメン=クズの印象を吹聴するのが交際相手の女性である以上は、当然ながらその女性に個別的に観測される必要がある。つまり、観測されない普通かそれ以下の男性群は、そもそも評価対象にすら加えられていない、ということだ。したがって、イケメン=クズの等式に暗黙裡に含まれる、「イケメンでない普通かそれ以下の男性群は、性格に関してイケメンよりも誠実である」という命題の信憑性はかなり疑わしくなる。にもかかわらず、この命題が流布されてきた背景には、おそらく、それまでイケメンのみを選り好みしてきた女性の、非イケメンに対する願望の投影があるのだろう。非イケメンが己の容貌の欠落を埋め合わせんがために性格に磨きをかけるといったロジックが文字通りの幻想であるのは、他の誰でもない俺の存在が証明済みである。

6/22 昼食後の異常な眠気や怠さを軽減するためにここ三日ほど、昼食後の15分程度の散歩を試している。正直そこまで変化があるとは思えないが、やれるだけやっておこうと思う。
あと、最近は食後の胃もたれの症状が酷くなっているように感じる。胃弱は物心ついてからの悩みの種であるが、この歳になって輪をかけてその傾向が強まっているように思う。体力は落ちているし、二食目以降は殆ど頭は使い物にならないしで、もうすでに加齢のきざしを感じつつある今日このごろである。無職やニート、ひきこもりの問題の過半は、認知力を含めた体力の問題に還元されるのではないだろうか。九時五時で勤務するのが現代社会のスタンダードとされているが、それを問題なくこなせるだけのバイタリティを備える人間は、蓋を開けてみればそう多くないという事実は、もう少し広まるべきである。

6/29
昨晩、恥ずかしながら初めて映画マトリックスを観た。マトリックスのあらすじは解説するまでもないであろうが、作中ではマトリックスという人工知能の提供する装置に人間は胎児の段階から格納され、そこで人間は擬似的な現実を現実と思い込んだままに生涯を終える。マトリックスに格納された人体から発せられる熱エネルギーを養分に人工知能のシステムは稼働されている。人工知能に提供された擬似現実を拒否する反乱分子が数少ないながらに組織され、主人公のネオは組織からその資質を見込まれ、擬似現実のマトリックスから実際の現実へと呼び覚まされる。ここまでの筋書きからあきらかなように、マトリックスの擬似現実やそこで提供される仮構の幸福という世界観は、2026年の現代をアクチュアルに表象するものだ。人工知能やSNSが普及し、肉体的な現実からの離反の傾向をますます強める昨今の情勢は、マトリックスの世界観と同型のものだろう。マトリックスはその最終盤に主人公ネオがマトリックス・システムの監視役であるエージェントを超越する能力を獲得し、システムの支配への明るい叛逆の兆しが示されたところで、幕を閉じる。これはもちろん、人工知能に対する人間の想像力/創造力の優位を示唆する演出であるが、冷笑的な鑑賞者の一人を自ら以って任ずる僕は、こうした一連の展開を手放しで面白がることはできない。
マトリックスのリアリズムは途中で反乱組織を裏切り、システム側に寝返る髭の中年男の側にある。彼の印象的な台詞に「無知は幸福の源」といった旨の発言があるが、システムに支配されることを拒絶し、人間的な世界を再建設することを望む組織の意向に反して、彼は積極的にシステムの養分になることを望む。「幸福な豚よりは、不満足なソクラテスでありたい」という著名なフレーズを想起させるこの台詞は、そのまま現代人の人生観にも適用可能であろう。
仮に、現代において人工知能がさらなる発展を遂げ、われわれが生身の肉体でもって生活することが最小限で済むようになり、現世的な痛苦の一切から逃れ出ることが可能になったとして、それを偽物であるというただその一点だけを頼りに拒絶することが、どれだけの数の人間に可能であろうか。批評家の東浩紀が以前に、経済学者の成田悠輔との対談の中で、「シャットダウンできる関係を人間は愛と呼ばない」という、説得的かつ近代的な恋愛観を表明していたが、これを実際に実践できる人間が現在どれだけの数いるか、僕は疑問に思えてならない。
当然、マトリックスに格納された人間たちは、見せられている映像知覚体験が、擬似現実であることを知らないため、東浩紀の議論をそのままここに適用はできない。ただ、目覚めた後で、再びマトリックスに戻ろうとする中年髭男の行為は、そのまま東浩紀の議論と接続するものである(※ただ、中年の髭男は単にマトリックスに戻るのではなく、目覚めて以降の記憶を消すことを要求してもいるので、これを厳密に同じものとして扱うことはできない。現実にマトリックスを実装する場合は、必然的にそれが嘘であるという認識を伴う。この点で東の指摘はクリティカルなのだ)。この映画を観て、主人公ネオやその組織のメンバーに共感を示すか、あるいは途中、裏切りを企図し無惨にも殺された中年髭男に共感するか、いずれの人口が多いかで今後の世の中の流れを占うことも可能であろう。
また、これと同様の感想をクレヨンしんちゃんの劇場版「オトナ帝国」を観たときにも抱いた。オトナ帝国ではマトリックスの代わりに、懐かしい昭和期の街並みのガジェットが採用されているが、問われているテーマは一緒である。孤独で悲哀に満ちた現実に戻るか、それとも大人帝国の提供する昭和期の幻想に浸り続けるか。この映画では野原一家の勇猛果敢によって、オトナ帝国への逆襲が成功し、オトナ帝国に吸引された大人達は現実へと連れ戻される。僕の措定したマトリックス的なリアリズムをここに適用するのであれば、オトナ帝国から連れ戻されたことを苦々しく思う大人がいてもおかしくはない。野原一家の「家庭の幸福」というエゴイズムに巻き込まれて、過酷な現実へと目覚めさせられては溜まったものではない。僕は、そうしたリアリティを体現する大人が一切、描かれていないという点に、この作品の子供騙し性を認めずにはいられなかったのだ。

或阿呆の断片

<1> 彼にはある悪癖があった。彼は殆ど他人を必要としない生活を幸か不幸か確立していた。彼は一応は学生という身分であるものの、大学には殆ど行かずに、大学の学問とは直接関係のない、もはや今では忘れ去られた古い学問に熱心であった。その古い学問との関わりというのも基本的には孤独なもので、インターネットを介して、目をつけた書籍を購入し、それが一人暮らしのワンルームマンションに届いたら、黙々と読むという、およそ他人との関わりを感じさせないものであった。
彼は、殆ど愚にもつかぬ学問的努力が、みずからの精神的な虚弱を原因として煮詰まってくると、きまって普段は抑制されている、性慾と寂しさの虜になった。学問的な努力という、きわめて脱性的で昇華的なこころみが、彼のこうした悪癖からの唯一の逃避先となっているのは、こうした経緯からもおのずと明らかであった。
彼は学問的努力の停滞を感ずるがはやいか即座に、匿名の通話機能を具えたサービスを起動し、そこで束の間の、倒錯的な安らぎを得るのであった。そのサービスは世俗の猥褻を煮詰めたかのごとき、醜悪な様相を呈していて、ユーザーの年齢層は10代前半から20代前半という若年者のみが集う環境であった。
彼はそこで、いかにも生育環境や学校での人付き合いに問題のありげな少女を発見しては、彼の浅薄な人生遍歴や読書経験から培った、さまざまの心理学的解釈を駆使して、狡猾に少女の心の傷に入り込むことに、無常の悦びを感じていた。 ただ、この無常の悦びが、端的な誤解に基づくものであること、普遍的なメシア・コンプレックス的幻想の生み出す罠であるということに自覚的であるていどには、彼は賢明であった。
彼はその日も、学問的努力の行き詰まりを感じるや否や、数ヶ月前にアンインストールしてあった、当該の匿名通話機能の付属するサービスを再度スマートフォンにインストールし、自身の精神的虚弱や無能を慰めることを企図していた。 彼はそこである少女に出会った。匿名通話アプリでの常識として、通話である程度の親交を深めて以降に、現実での接触を狙うという原則が存在するが、その少女の振る舞いはきわめて性急であり、出会ったその晩のうちに接触し、そのうえで、相手の自宅に泊まるか、あるいはホテル代を出してもらった上で、そこに宿泊するかのいずれかを要求していた。
普段の彼の得意とする、少女の内面における陳腐の悲劇趣味への、共感を装った懐柔の技巧、これを発揮するいとまを与えられることなく、彼は先ほども言ったような、性慾と寂しさの悪魔の囁きに導かれて、殆ど意思を喪った、夢遊病者のように、彼女を最寄りの駅にまで誘い出してしまった。
彼女は彼の住む埼京線の某駅に、終電を乗り継いで到着し、その装いは、彼の事前の趣味の提出も勘案されてか、匿名通話サイトの住人には似つかわしくない清潔と処女性を感じさせるものであった。 しかし、その装いの清楚とは裏腹に、彼女は、一度も会ったことのない、さっき通話で数分間話したていどの彼の腕に上半身を絡ませ、まるで、数年間の交際を思わせる恋人同士であるかのように、彼に対して媚態を呈するのであった。 彼は、匿名通話サイトでの少女の誘惑に自負があるとはいえ、実際に面と向かって、少女から誘惑されることには、まったく慣れていなかったから、女性との交際経験の皆無の童貞が、しばしば湛えるはにかみの微笑を頬に浮かべながら、師走の透き通った寒空の下で、白んだ吐息を吐きつつ、これから自分に訪れるであろう、誘惑の甘美を予見し、身体の内奥からほとばしる性慾の蠢きを、性器領域の緊張とその液体の分泌とから、感じないわけにはいかなかった。

 

<2>  彼は少女を自分の部屋へと案内した。彼は家出同然の少女の来宅のために、部屋を掃除するといった殊勝の精神を持ち合わせてはいなかったから、衣服の雑然と床に散らかった、7.5畳ていどの部屋に彼女を招き入れることには、すんごうの抵抗も示さなかった。
少女の居心地のわるさを持って回って感じさせる、その所在なさげな態度に、彼はいじらしさを感じていた。 彼は少女を部屋に招き入れた瞬間に、彼女をみずからの性慾の捌け口にするといった発想は持ち合わせていなかった。
彼は確かに自身の性慾とさみしさの鬱積を感じるがはやいか、ネットの同族の女をあさっては、籠絡するというこころみを習慣としてはいたが、それが必ずしも、実際の物理的な性器的接触を志向するものではないことは、彼の幾つかの経験から明らかだった。 また、彼には、性的不能という欠陥もあった。彼は以前より、ネットの女への誘惑のみならず、真剣に、一人の女と交際したという経験も、わずかながらに有してはいたものの、その時ですら、十分に心を許せたという、時間的・精神的の猶予なしには、成人の十全の性的結合を達成するのは難しかった。
彼はそこで初めて、少女の簡単なプロフィールや匿名通話サイトその他での淫蕩の前歴などについて、聞かされた。 そこには、巷間で見聞する、少女のいわゆる非行の全てが網羅されていた。手首自傷、過量服薬、援助交際……それらの陳腐でセンセショナルの概念の連続は、彼を感傷的にするどころか却ってどこか可笑しく感じさせた。他人の不幸な身の上話の紋切り型やテンプレートを耳にするたびに、それが電話口であろうと、実際の対面であろうと関係なく、その奇妙な納得感や解釈一致の安堵感に、思わず吹き出してしまうというのが、彼の性格の悪さの一端をあらわしていた。
いま、性格の悪さといったが、これは必ずしも彼の性格の悪さの一点のみに還元できる事象ではないかもしれない。なぜなら、人間には、他人の不幸話を聞いた時のその定型性に、一定の安堵を見出すという傾向が具わっているとしか、思えないためだ。 もし、自分が、誰か他の人に自身の不幸な身の上話を告白して、それが一笑に付せられてしまったにせよ、それはあまり悲しむべきことではない。なぜなら、その目の前の他人の反応の軽薄じたいが、その当人の置かれている状況の陳腐や矮小をいみじくも暴露しているからだ。
話を前に戻そう。彼は一通りの少女の来歴に耳を傾けたのち、彼女を自前の部屋着へと着替えさせて楽にさせ、自身の横臥するベッドで一緒に休むよう促した。 終電を乗り継いで彼女がここまで来たという先の記述からも明らかなように、夜はもうずいぶん前に更けており、時計の短針は3の数字を指していた。
彼は不能のコンプレックスを抱えているし、また、彼女のいじらしい少女性ないし処女性の面影に気圧されて、彼女が自分の真横で寝る体勢になっても、いまだに彼女の肌に触れることをためらっていた。そこには司法からの処罰の可能性への危惧もないではなかった。
彼にはある倫理があった。それは、世間の道徳とは違った倫理であった。仮に、刑法や条例その他の理由で裁かれる年齢差であったとして、そこに本来的な愛情が、刹那にせよ、芽生えたのであれば、それは道徳的にはまずくとも、倫理的には許されようというものだ。 グルーミングの標語で知られる性的手懐けの邪悪についてはむろん彼は自覚的であった。しかし、その自覚と同程度に、年少者との愛の夢想にとらわれる程度には彼はロマンチストでもあった。
自身の行為への世間からの断罪と、それを正当化するべく拵えた仮初の倫理との間の相剋に、彼は頭を悩ませ、少女の隣での横臥という誘惑にもかかわらず、殆ど身動きをとれずにいた。

「シたかったら、いつでもいってね、今日、生理だからエッチはダメだけど、手とか口なら大丈夫だよ。」

少女の屈託のない誘いは彼の胸を打った。
それまでに彼女から打ち明けられた、具体的の非行の数々が、ツルツルしたどこか現実味のない言葉であったのが、いまこの瞬間に結晶化した。男性への誘惑を唯一の拠り所として、男性に春を明け渡す対価に有形無形のやさしさを得ている彼女の生きざまが、どうにも哀しかった。そうして、こうした自身の哀しみが、安全圏からのシャーデンフロイデを決して越え出るものではないことをも知っているがために、彼の神経はよけいに融解した。
彼の内面の葛藤は、この彼女の悪気なき提案、彼女のそれまでの生きざまをなによりも、具体的にあらわす提案をキッカケとして、氷解のきざしを呈した。 彼はそこから少女の唇にみずからの唇を重ね、舌を絡めて、彼女のいまだに成長の余地を残した乳房へと掌を伸ばした。
堰を切ったように流出する彼の性慾と悲しみは、彼女の中に特定された性慾と悲しみを捉えて、不能の彼とメンスの少女の代わりに結合した。
彼は、少女の掌の中で果てた。射精後の少女の稚拙な口淫は彼をいっそう、侘しくさせた。

 

<3> 翌朝、少女は目覚め、まだ朝日が出てきて間もない時間帯にもかかわらず、下着を装着し、帰宅の準備を始めていた。少女は、またここにきてもいいかと、彼に尋ねた。彼は次があるのかと、嬉しく思い、快諾した。彼は昨夜の苦悩と恍惚と哀惜の疲労がいまだ抜けきれておらず、少女を某駅まで、送り届けることはせず、玄関先で別れた────
その数日後、彼女の連絡先は彼のSNSから消えていた。ブロックされたのは明白だった。
彼は彼女と始めて会ったその日の晩のことを思い出していた。
彼女の「シたかったらいつでもいってね」という発言が、耳からこびりついて離れず、それがこちらの紳士性の試験を意図したものであった可能性について、考えた。
彼には確かにあの晩に、彼女の誘惑を振り切り、紳士を演じ切る選択肢も残されていた。
しかし、あの瞬間、彼女の悪気を微塵も感じさせない、手淫と口淫についてのそれが、彼のうちの何かを破裂させたのはたしかだった。
少女のうちに認められた娼婦的自尊心を養うためでも、単なる性慾を発散するためでもなく、そこにあったのは、みずからと目の前の少女の置かれている人生の境涯への端的なさびしさ、だけであった。 さびしさが極限に達したとき、性搾取やグルーミングや悲劇趣味への冷笑といった、あらゆる念頭の観念は消え去って、そこにあるのは、底なし沼の、ぬかるみの、麻薬的の恍惚にまみれた、醜い醜い男と女、ただ、それだけであった。

LOST AND FOUND 11/28-12/28

2025.11.28
インターネットって、胎内回帰なんかな。

11.29
昨日のマチアプの女と訪れた個人経営の書店の店名は「蟹ブックス」というのだが、予想通りの本棚のラインナップというか、典型的な中央線沿線左翼系書店という感じで、いささか苦笑いの感を禁じ得なかった。(ケア、フェミニズム、現代思想etc.)
当然ではあるが、都心部の大型書店とは比較にならないほどの僅少な蔵書で、客は何を目的にここに来るのだろうかという疑問は絶えず付き纏った。やはり、自身の左翼性に自覚的で、なおかつ、その雰囲気を物理的にも体感したいという人間が、自己確認を目的として訪れるのであろうかと思うと、全く相容れない世界だなと嘆息するばかりであった。

XをTwitterと呼び続けるのは、ある種の態度表明でもなんでもなく、親が離婚して姓が変わった昔の友人を旧姓で呼び続けるみたいなものだと思う。

東浩紀は父親が保守で、母親がリベラルという家庭で育ったという。これはうちの家庭とも似ていて、母親は両親共に社会科の教員で、しんぶん赤旗と朝日新聞の土壌で純粋培養され、その一方で、父親は日本の伝統的な製薬会社の子会社勤務で、自民党支持だ。
東浩紀の政治に関する呟きの含む絶妙な聞き心地のよさは、彼との生育環境の類似性に原因するものかもしれない。
ただ、政治信条の嗜好とはまた別に、人文知一般に対する理解度の高さという点で、僕は母方の祖父母に思慕を寄せるものなのだけれど。

11.30
堀江貴文は二十四でライブドアの前身、オン・ザ・エッヂを創業してるというのに…俺は…俺は…!

12.2
女性の男性の手指に対するこだわりが、性関係の能動性と受動性の関係に対応するものであるという自説を開陳したい。
極めて素朴な発想ではあるが、女性は基本的に男性との性関係に於いて触られる立場であり、触る立場ではない。従って、自分が触られることを常に無意識に念頭に置く女性の生理に照らしてみれば、女性が自分の身体を触ると想定される男性の手指に並々ならぬ関心を寄せるのは至極穏当といえよう。
女性の男性の声に対するこだわりについても同様の指摘が可能だ。声は手指ほどの直接性はないにせよ、耳元で男性から語りかけられるという契機を連想させるものであり、これも性関係を盛り上げる上で欠かせないエッセンスである。

12.3
渡邊渚の日本社会の性搾取構造についての批判的記事を読んだ。これを読んでみて感じるのは渡邊渚の思想的変遷というのは、分かりやすすぎるほどに分かりすぎるということである。
仮に現代の日本社会に男性優位的性搾取構造が潜在していたとして、その非対称な性搾取構造をある種逆用する形で、フジテレビのアナウンサーという地位にまで上り詰めた女が、芸能界の重鎮からの性被害をきっかけに改心し、左翼系フェミニストと同様の言説を展開し始めるという皮肉。
別に彼女の言説や活動自体を冷笑する気は微塵もなく、彼女の今回の記事についても概ね賛同するところが多かった。性風俗や個人売買春の黙認が、男女の地位の格差の温存に間接的に寄与しているという指摘は、確かにそのような一面もあるだろうと思う。
若い女が身体を切り売りして、それに見合った対価を男性から受け取るという、殆ど原初的とも言っていいくらいの古典的な商売を制度的に規制することの是非について云々するだけの知識も能力も持ち合わせがないが、スウェーデンが買春の事実上の違法化を決定して以降、性風俗の店舗が激減したという事情を鑑みても、彼女の議論に一定の実現可能性や妥当性があることは認めねばなるまい。
ただ、一方で彼女の言説の帯びる視野の狭窄やその批判の一面性については指摘せねばならないだろう。性被害という決定的な外傷的体験を背負った彼女にそれを課することは酷なことであろうが、売春婦を社会構造の被害者に位置付けこれを擁護するのみならず、買春する男性側の動機の構造的背景についての配慮が加われば、更に重層的な読み応えのある議論が展開されたように感じる。

12.11
岡田斗司夫と山田玲司の対談で出された「こちら側の女とあちら側の女」という区別が示唆的だった。こちらのオタク的な趣味に理解のある敢えて言えば男性的な女性に対して、オタク的な趣味に無理解な煌びやかな港区女子的な類型をあちら側と定義する。そして、あちら側の女をこちら側の男がものにするためには、あちら側の女に通用する通貨を使用する必要がある。それがつまり金や権力である。岡田斗司夫は露悪的にもこちら側の男のあちら側の女への貢ぎや奢りを「餌付け」と表現していたが、コミュニケーションの原理的に不可能な他者≒動物に対して唯一可能な接続の糸口として、そのような俗悪な手段に訴えることの有用性を軽妙に形容していると言えるだろう。

12.12
フロイトの「終わりのある分析と終わりのない分析」という最晩年の論文を初めて読んだのだが、後期フロイトいや、精神分析のそれまでのエッセンスの凝縮された傑作中の傑作なのではないか。幼児期以来の習慣の中で形づくられた自己防衛機制が、分析の操作の過程で分析自体へと向けられ、陰性の治療反応を惹起すること。それが、生を方向づけるエロスではなく、死の欲動の着想のきっかけになるということ。
最後に、精神分析の治療中に現れる最大級の厄介ごととして挙げられる、男性と女性に共通の「女性性の拒絶」という現象。
女性の女性性の拒絶はペニス羨望として、男性のそれは去勢不安として現れる。男性の去勢不安は「男性の男性に対する受身的態度」と対応するため、注意が必要だ。男性患者の女性へのマゾヒズム的態度とこの女性性の拒絶は両立するというのが、この論文の主張のキモである。
ラカンでは、主に不安のセミネールなどで、去勢の動作主が専ら女性に措定されるのに対し、フロイトでは、去勢不安の動作主が男性に位置付けられているのが、興味深い差異だろう。
無論ラカンの去勢は二つのレイヤーがあり、一つは想像的な母親による去勢で、これはパラノイアの病因を形づくるとされる。もう一つは象徴的な父親による去勢で、こちらは神経症者=正常者の精神構造に必須の過程とされるのだが。フロイトの男性患者の去勢不安はイマジネールな水準にあると思われるので、ラカンで母親や女性に措定され、発達史的には精神病の動因とまで見られたものが、同性の他者に担わされているといった具合なのだろうか。

12.13
フロイトの五大精神分析のうちの一つ、「症例ドーラ」は確かに、時代背景もあってか男根主義的で性差別的な解釈が散見されるのだが、それでもトラウマとその身体症状への回帰という回路を確立したという点で多大な貢献を認めるべきであろう。
例えば、フロイトは、ドーラのK氏による強引なキスを起源に生じた症状に関して、「健康な少女であれば性器の快感が生じたはずであるのに、ドーラではこれが吐き気としてずらされている」という旨の分析を与える。
そして、性的快感が嫌悪感に転換されるのをヒステリー症者の最大の特徴であるとも断言する。これが現代の価値観からして到底受け入れ難い主張であるのはいうまでもないが、ある心的外傷が、象徴的な操作を被って症状として回帰するという、神経症の生成過程のキモの部分は決して失われてはいない。
ドーラは他にも、胸部圧迫感や失声という原因不明の症状に冒されている。
この本来であれば…の部分を取り除き、外傷的な体験を脱色せずに、象徴化の過程を保持すれば、それは現代でも通用する立派な解釈のフレームを与えるだろう。

12.28
一個六百円する焼売を表情一つ変えることなく、口に含んで嚥下し、憮然とした面持ちで、背もたれに寄りかかり、次に運ばれてくる料理を待つ。私の目の前には両親がおり、私の将来についての既視感ある紋切り型の質問を延々と繰り返す。この年齢になって思うのは、両親と話すべき話題とか、提供したいと思える話題がまるで見つからないということだ。
我々のテーブルから導線を挟んで向かいに位置するテーブルに、老婆二人と金髪のウルフカットで、十代後半から二十代前半を思わせる若いメンコン系の風体の男が、遠慮がちでどこか他人行儀の抜けない、堅苦しい雰囲気を醸し出しつつ、メニュー表を開いている。
私はその男の羨望に近い眼差しを感じ、私とその男を截然と分つ、高級中華料理店の導線距離以上の文化的・経済的懸隔の存在に思いを馳せた。もちろん、彼等彼女らの関係を男娼とそのパトロンと決めつける根拠は外見以外に何もない。毎回食事をするたびにお馴染みの展開になりつつある、私と両親の間での、進路に関する詰問めいた応酬にいささか神経が疲弊し、その場から意識を解離したい気持ちに駆られて、このような愚にもつかない空想を働かせたに過ぎないのかもしれない。
しかし、師走の忘年会も兼ねた普段より賑やかな空間に、ほんの一瞬間その存在を許された、人生や運命についての感傷が、私の途方も無い沈鬱を少しばかり軽くしたのは認めざるを得ない事実であった。
<続き>
昨夜の年末の食事会の居心地の悪さについて、さらに考えを付け足すべきであろう。
ここでは、年末という時期が重要なのであるが、要するに、私のようなニート同然の放蕩息子に(象徴的な意味で)正月は決して訪れないということである。
現在の私と両親の関係、これは─もうここ数年間の長期に亘る関係であるのだが─いわば、借金の貸与者と債務者との関係みたいなものであって、両親から借りた借金をいつ返すかいつ返すかと、対面のたびに、請求/尋問されているようなものなのである。
年末年始の忘年会や新年会は、基本的に、その一年間の苦労や社会的義務の労いとして、設けられるものであって、私のような一切の社会的義務や制約から遁走する落伍者には到底、与えられるはずのない恩恵なのだ。
繰り返すが、両親と私との間に、会っていない期間の苦労をお互いに祝福するような歓談が成立することはあり得ない。一年の労苦の共有という正月を成り立たしめる大前提が、そもそも用意されていないからだ。それでも、強引に正月の慰安の体裁と形式を保とうとすれば、そこで両者から発せられる様々な言表は、そのすべてが回り回って借金の問題=私の将来の問題へと帰結し、既に切り開かれた傷口をあの手この手で反復的にいじくり回す、殆ど被虐的な幻想を実現させる場の様相を呈する。
あるいは別の例でもいいかも知れない。
両親は私の将来を追及する際に、必ず、メタ・メッセージとして、赦しの懇願を忍ばせていると。
「確かに私たちはお前の育て方を誤ったかもしれない、そして、その誤りの仕打ちをここ数年に亘る経済的・精神的負担によって被ってきた。でも、もう赦してほしい。私たちがお前に与えたと、(少なくともお前が感じているであろう)損失に見合うだけの対価を私たちは支払った。」
このように、毎度の面接でなされる会話が発展性の皆無な詰問に終始することの原因が、両親の私への赦しの懇願に潜在していると、解釈するのも可能だろう。
「これからどうする」「いつまでに卒業できる」
「いつまでも面倒見られるわけじゃない」
この延々と飽きもせずに復唱される内容を欠いた定型句は、何かの具体的な返答を求めるものではなく、もっと隠喩的かつ潜伏的な、彼等の私に対する罪悪感からの解放を願ってのものだろう。さらに言えば、私に罪悪感を植え付けることで、自らの罪悪感から早急に逃れ出ようという狡知と奸計を働かせてのものだろう。
もしこの想定に立つのであれば、私の腐食の進みつつある良心の傷口に、アルコールを染み込ませた脱脂綿を押し付けたときのように、裂傷の裂け目から鼻の曲がる柑橘の香りを嗅がないではない。私は別に両親を恨んではいないのである。

LOST AND FOUND 11/20-11/28

2025.11.20
マッチングアプリのプロフィール欄に否定性の文言(ex.○○は嫌い)を組み込む女の地雷性について。否定性の顕示が許されて然るべきという己がマンコ性に居直った傲岸不遜の身振りを唾棄すべき。

11.21
男性の性的嗜好は一般に視覚的とされるが、聴覚の重要性を声高に主張したい。ラカン的な文脈で視覚=想像界、聴覚=象徴界であるならば、男性の性的嗜好が聴覚優位に学習されることも理論的に証明され得る。去勢不安が超自我の源泉であるというフロイトの主張がこれをさらに上書きする。

マチアプの「お互いに高め合える人がいい」という記載には、別に足を引っ張らなければ高め合えなくてもいいけど…と思う。

11.23
痴漢の私人逮捕などは見ていて胸が痛くなる。自分の知り合いでも友人でもない女が痴漢や盗撮の被害に遭って、その加害者を取り押さえるために労力を投じる市井人の正義感とやらの享楽的な暴力の行使に、気味の悪さを禁じ得ない。これは自分が潜在的(権利的)に性犯罪加害者側であることによる部分が大きいのだろうが、自分が正義の側である、ないしは、被害者に共感するに十全な資格を備えた善良な市民の側である、という確信の下に制裁の行為に及ぶ彼等の代表する世間というものを怯懦せずにはいられないのだ。
特に私人逮捕に手を貸す男性に対して著しい嫌悪を禁じ得ない。男性と一括りに性犯罪親和性を唱えるつもりはないが、女性の性犯罪に対する共感性や同情性に比べて、(たとえ娘がいるなどの状況を顧慮しても)人為的・人工的のきらいのあることは否めないであろう。
この点に関しては「チン騎士」のスラングで、女性に媚びる男性を侮蔑したがる一部のインセル系言論人の言い分を肯定するに吝かではない。

11.25
インフルエンサーでもないただの素人がSNSに自らの容貌を投稿するのは発狂の兆候という俗説があるが、これはラカン的な精神病理学の文脈に於ける、象徴界に居場所を失った精神病者が、想像的な手段=妄想の産出によって、存在の定位をいじらしくも図ろうとするという学説と対応関係にあるのではないか。
SNSという想像界一辺倒のメディア(この表現自体が極めてトートロジカルではあるが)に対して、容貌の顕示という不恰好な形式で接触を試みる彼等の滑稽ですらある身振りに、復帰現象的な機能を読み取るのはそう難しくない。

突然の犯罪履歴の告白のようで恐縮だが、精神分裂病やパラノイアに於ける注察妄想の追体験には万引きや盗撮などの軽犯罪を犯してみるのがいいと思う。自分の普段の何気ない仕草までもが犯罪の兆候として周囲から読み取られるのではないか、という疑念を絶えず抱きつつの行為は、もしかしたら精神病者の世界体験に肉薄するものであるかも知れない。
自分の意図(犯罪企図)が先回りされて相手に知られている、あるいは通行人の自分に向けられた(と思える)表情や視線から過剰の意味を読み取り、焦りや不安を掻き立てられるなど。

マチアプのアプリ毎の民度の差異というのは、主に男性ユーザーに課金システムを課すことで成立するものであり、その間接的効果として女性ユーザーの民度向上は望めるかも知れないが、畢竟それ以上のものではないのだよな。

11.26
最近のバキバキ童貞って、人畜無害なオタク像・チー牛像・非モテ像への大衆の欲望に寄り添ったコンテンツしか供給していなくて、つまらないと思う。大衆の鏡像的な欲望を裏切る倒錯性にこそ、オタク的な美学の本義があるはずだが、彼らの供給するコンテンツの志向は、 多数派の欲望の枠組みの中にあくまで綺麗に収まっている。かと言って尖ることや逆張り自体を自己目的化してもいけないのでバランスが難しいが、最近の特にチェンソーマンを絶賛しているあたりには個人的に失望を禁じ得ない。

大学のゼミで催眠の真似事を体験したが、ゼミの教官(男性)に女子学生が催眠をかけられているのを見て、思わず「AVやん」と小声で呟いてしまった。催眠にかかりやすいというのは心身の感応性に秀でているということで、即ちセックスに於ける感度が高いということだろう。その女はタートルのニット越しに大きめの乳房の輪郭を際立たせ、チェックのミニスカに厚底ブーツというティピカルな女子大生の出立ちで、俺のような陰気な男性を最も毛嫌いするタイプであると思うのだが、その瞬間、つまり、「中年のビール腹の大学教授によって催眠をかけられる」という、どこからどう見てもセックスの隠喩の儀式の最中だけは、些かの可愛げと嗜虐を覚えたものである。
他方で俺もその教官に同様の催眠を手伝ってもらったのだが、元来の強迫的な性格が悪さをしてか、催眠誘導に反応して動こうとする身体が自然なのか不自然なのか、幾度も反芻してしまい、上述の女子学生ほどの明確な変化は見られなかった。相手の言う通りに自分の身体を委ねるという操作自体への不得手と、何が自然な反応で、何が恣意的な反応なのか、という問いの低徊に延々と直面させられ、とても催眠にかかれるような状態ではなかったのだろう。
催眠のかかりやすさはフロイト-ラカン的にパラフレーズすれば去勢の問題であり、去勢不安に怯えがちな男性患者の方が、催眠への感度は劣るというのがおそらく定説だろうが、それが見事に自分の身で再演されたということであろうか。

11.28
久しぶりにマチアプで女と会った。
女はメルヘンなサブカルチャー的服装に身を包み、フリルの付いたミニスカートからは不健康なほどに痩せ細った脚部が伸びていた。
女の身長は五尺程度と小さく、顔の肌の血色は悪く、全体的に生気に欠ける印象を受けた。
女の容姿を一目見た瞬間に、集合場所から遁走したい欲望に駆られたが、その時点で予定の集合時間から早くも20分以上が経過しており、遅刻したうえでの遁走は、人格破綻者を自認する彼のカビの生えた良心を流石に傷めるものだったのか、彼は時間を無駄にし後悔することを承知の上で、待ち合わせ場所の高円寺駅改札前に佇む彼女に声を掛けた。
彼は彼女の覇気のない愛想笑いに対して、一抹のいじらしさを覚えつつも、この女とこれから最低でも小一時間を過ごさねばならないという未来の労苦を案じて、引き攣った笑みを浮かべていた。
彼は予定通り、高円寺の個人経営の書店とウィメンズの取り扱いが中心の古着屋を案内した。
その道中の会話は途切れがちであった。
重たい沈黙を突き破るべく気を遣ってか、彼女が彼に話しかけた時も、彼の返答は心ここに在らずという印象を与えずにはおかなかっただろう。
書店と古着屋の巡回が済んだ後、彼の頭の中には、喫茶店でお茶をするか、そのまま解散するかの二つの選択肢が浮かんだ。
彼女は事前に希望の喫茶店を用意していたらしく、彼にその旨を提案したが、彼がその喫茶店を訪れることに乗り気でないことが伝わったのか、急激にその表情は冷め、その場で解散するという味気ない結論へ落ち着いた。
帰りの津田沼行きの総武線に乗り込んだ彼は、謝罪の文言を送るという可能性を微塵も感じさせないほどのスピードで、彼女のチャット欄を消去し、アカウントをブロックした。
彼は関係性の発展のまるで見込めない女に対して、その場限りの誠実性すらも発揮できない自らの器の狭量をあざけりつつ、総武線の車窓に流れる杉並の夕陽に照らされた風景を、度の強い黒縁の眼鏡越しにぼうっと眺めていた。

性器の通俗表現について

クサマンという表現の一般性に対して、クサチンという表現がまるで聞かれないのは、マンコがチンコに比べて不衛生であることを皆が認識していることの証拠だよな。
チンカスとマンカスはそれぞれ同程度の存在感を得ているにも関わらず、クサマンに関しては圧倒的な非対称性があるという点が興味深い。

やはり、これはカス以外にも不衛生な雰囲気を構成する要素が多々あるということなのだろうな。チンコの場合、チンコの不衛生を代表するものはチンカスに限られるが、マンコでは更にその対象が拡散され、マンカス以外の様々な要素が想像されるのだろうな。

チンコがこれだけポピュラーに人口に膾炙するのに対して、マンコはなぜ、放送禁止用語的扱いを受けているのか。マンコの形状的なグロテスクがその役割の一端を担っているだろう。

マンコを家父長制的占有物(隠匿物)に位置付けることで、それに逆説的な神秘性を与え、男性の欲望を刺激するという社会構築主義的な背景も無論あるだろう。構築主義神秘主義を裏切る形でのマンコの形状的グロテスクが、マンコにまつわるあらゆる言説をかくも複雑なものたらしめているのかも知れない。

精神分析家のフロイトはマンコに対する男性の忌避感や嫌悪感の正体を、母親の性器を幼児期に目撃した際のトラウマに求めた。そして、そのトラウマを否認する形で形成されるのが成人後の倒錯的なフェティシズムである。
母親が下着を脱ぐ寸前のシーンに固着した幼児=母親にペニスがないことを受け入れられない幼児は、性器の周辺部である脚部や或いはペニスの不在を被覆する下着自体に興奮を催すようになる。

このフロイトの学説を発展的に継承した同じく精神分析家のラカンは、女性のペニスの不在や欠如こそが男性の欲望の原因として機能していると主張する。自身の現実的な穴=欠如を覆い隠す幻想自体が女性性であると定義し、その欠如に奉仕する能動的な主体として男性を措定した。
しかしながら、この欠如や穴という認識自体が構築主義的所産に他ならず、その虚構性を抽出して、ラカンは「性関係は存在しない」というテーゼを提出するにまで至るのである。

穿たれた穴は男性のものであり、女性に欠如は存在しない。つまり、女性は欠如態でもって集合を作り得ない。
この些かアイロニカルな定式化がかの評判の悪い「女は存在しない」の内実である。

二浪時代(2021年11月頃)の手記

今日自習室で勉強してたらですね、なんかこう鼻をツンと刺すような酸っぱい感じの匂いが僕の周りを漂って来たんですよ。なので僕は「誰だよ、悪臭垂れ流しながら勉強してるクズは…殺すぞ」とか思いながらやってたんですね、それでまぁなんとか我慢しながら勉強して今日のノルマを終えたので外に出たんですが、おかしいのがここからで外に出たにも関わらずさっきと同じ悪臭がまだ僕の周りを漂ってるんですよ、これもしかして…と思って手櫛の要領で頭皮を撫でてみたらまさかの予想的中、さっき僕があれほど憎んでた悪臭が指の腹から香って来たんですよ。なんかもうそれでガッカリしちゃって、他の利用者のせいに違いないと決め込んで、ちょっと太り気味の女子中学生を背後から睨みつけてた自分が情けなくて、俯き加減でとぼとぼと帰宅したんですよ。

去年の今頃-或る感傷的風景-

ぼくの誕生日は10/15である、これを書いているのが10/12であるため、もうそろそろ誕生日を迎える時分である。今年でぼくは23歳になる訳だが、誕生日を迎えるにあたって、昨年の誕生日を自分がどのように過ごしていたのかを振り返ることにする。
昨年の誕生日は当時もう交際関係の破綻していた元カノと過ごした。吉祥寺の駅の構内で待ち合わせて、ぼくの趣味の洋服のセレクトショップに同伴してもらうべく、井の頭線に乗り換え、神泉駅へ向かった。しかしながら、そのセレクトショップは要予約制であり、一日あたりの来客者数に限りがあるため、今日はもう対応できないと断られてしまった。ぼくは同伴してもらった彼女に申し訳なさを感じつつ、せっかく神泉まで来たのだから少し散策しようかと提案した。彼女は快諾してくれた。近所の公園を散策し、ヴェンダースの映画に登場してもおかしくないような、隈研吾的意匠の施された公衆トイレを発見し、それを写真に収めるなどした。彼女は大学の写真サークルの先輩(正確にいうと年齢的にはぼくより二個下なのだが)で、いつも外出の際は一眼レフを持ち歩いていた。
神泉の逍遥も限界を迎え、もう一度井の頭線に乗って吉祥寺駅に戻り、ここからは予定通り吉祥寺でディナーを取ることにした。しかし、去年はコロナ禍の煽りもまだ些少ながらにあったのか、どこも閉店時間が早く、19時を回ってもいなかったにも関わらず、入れる店が見つからなかった。唯一空いていたのは北欧料理を提供する個人経営の小洒落たレストランで、そこにぼくたちはほっと胸を撫で下ろしつつ、入店した。5,000円かそこらの学生身分に適当な値段のコースを注文して、ぼくたちは他愛もない会話をしながら食事をとった。
「今日は一緒に付き合ってくれてありがとう」
「いや、正直面倒だったんだけど、誕生日だって言うから仕方なく来たんだよね」
「そうなんだ…」
面倒、この面倒という言葉が一年が経過しようとしている今でも耳にこびりついて離れない。ぼくは勿論、誕生日を一緒に過ごしたいと思うほどには彼女のことが依然好きだった。しかしこの面倒という言葉に集約されているように、彼女のぼくに対する好意の薄弱は目に見えていた。ぼくは自分が振られた側なのだから当然それはわかっているつもりではあったのだが、やはりはっきりと面と向かって口にされると沈鬱な気分にさせられた。そして、誕生日というメモリアルかつ非日常的な時間を、それがもう仮に影も形もなく消え失せてしまっていたにせよ、あくまでロマンチックに、擬似的に演出する配慮すら欠けている彼女の頭の悪さを軽蔑した。あるいは彼女はぼくを勘違いさせないために、あえてこのような冷淡なそぶりを見せたのかもしれないけれど。
話が些か脱線してしまった。彼女は慣れない手つきでナイフとフォークを使いながら、皿に
少しずつ上品に盛られた白身魚カルパッチョやムニエル、テリーヌ、そのほか様々な何で構成されているのかよくわからない料理を口に運んでいた。
割り勘で会計し、店を後にして、ぼくは彼女の腕に手を回した。その日はシャツにパーカーを着ても若干寒いくらいの気温だった。彼女の最低限の良心やサービス精神も手伝ってか、彼女は嫌がる態度もみせず、ぼくのかくのごとき仲睦まじき恋人相手にするような挙動を黙って受け入れてくれていた。時間も遅く、彼女の家はぼくの当時住んでいた実家の小金井よりも更に西の方だったから、彼女はぼくの家に泊まることになった。懇願して泊まってもらったと言った方が表現としては適切だろう。彼女は当然、すでに別れた男の家になど上りたくはなかっただろうが、ぼくの方から無理を言って、今日だけは一緒に夜を明かしたいと、頼んで説得したのだった。
そこからはあまり書くべきことはないかもしれない、彼女はぼくの家に来て、恋人同士であった頃と同じように、頬を紅潮させ恥ずかしがりながら、ぼくの母に挨拶をし、そそくさと逃げるようにぼくの二階の部屋へと上がった。
ぼくの部屋に入ってからも居心地が悪そうに隅の方でなぜか体育座りをしていたので、ぼくは「おいでよ」と言って、彼女をベッドの方へと呼び寄せた。自室という閉ざされた二人だけの状況がぼくらの冷え切った関係にほんの少しの情愛のエッセンスの付け入る間隙をつくり、ぼくらはつい数ヶ月前と同じような甘い雰囲気になった。
部屋の電気を消して、彼女に接吻をし、ぼくは首や耳といったあらゆる彼女の性感帯を刺激した。勃起したペニスにあらかじめ用意してあった避妊具を装着し、彼女の膣内へと挿入し、正常位で、できるだけ身体を密着させながら、彼女の体温を最大限に体感しつつ、ぼくの哀しみとよろこびの葛藤的に混交した快楽は絶頂に達した。不思議と付き合っていた頃よりも、内容的に充実した性交渉を実現したという実感があった。彼女は下着は外してしまって、白くて薄いキャミソールのみを着用していた。恋人関係の回復を予期させるほどの甘美を備えたセックスの余韻をぼくらは噛み締めながら、汗ばんだ肢体を仰向けにして、半時間ばかりの休息を得た。
「今年の、22歳の目標とかあるの?」
彼女は隣で横臥するぼくに尋ねた。
「うーん、どうだろうな、とりあえずは精神分析が今俺の中でブームが来てるから、それを個人的に勉強しつつ、大学の単位もできるだけ取ってって感じかな」
「なんかあんまり今と変わらなくない?」
「それはそうだよ」
こうした無内容な会話を彼女とできているという事実がいま振り返ってみるとあまりにもぼくには幸福だった。ここまで読まれた読者は薄々、いや明瞭に感じ取られていると思うが、ぼくは今でも彼女のことを忘れていない。彼女と別れた後にぼくのことを好いてくれ、交際関係に発展した女性もないことはなかった。がしかし、これはその後の彼女たちには大変失礼極まる話なのだが、この去年の10/15を一緒に過ごした彼女と記憶の中で比べるたびに、目の前の相手に対して喚起される情愛の程度の希薄を認めざるを得なかった。
ぼくはもう彼女との関係が破綻したこともあって写真サークルも辞めてしまったし、LINEやインスタその他あらゆる連絡手段を実際遮断されているから、彼女とコネクトする方途は現状皆無と言って差し支えないだろう。
偶然大学のキャンパス内ですれ違ってアイコンタクトと同時に会釈をする程度のコミュニケーション、それくらいしかぼくたちにはもう接点が残されていない。

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これはぼくの自室にて撮った彼女の写真である、日付は9/22とあるので、誕生日に撮影されたものではない。ちなみに彼女の写真は殆どぼくのフォルダに残っていない。消去したとかではなく、彼女がぼくに写真を撮られるのを嫌がったためだ。これは数少ない彼女の雰囲気を写す写真のうちの一枚である。