4/27 前に書いた時からかなり期間が空いてしまった。どうも、俺は日記を付けるのに向いていない。部屋から殆ど出ずに、本を読むか、スマホを触るか、陰部を慰めるかしか、していないのだから当然ではあるが。 ここ数日は俺にしては調子がいい。一月から二月にかけての、あの季節性鬱の如き、沈鬱や倦怠感が払拭されつつあるのを感じる。 人間がここまで、季節や気候に生理を支配されるのというのは驚きであるが、(ロシアや北欧、国内では秋田などの)北方の寒い地域の自殺率の高さなどを踏まえれば、不思議ではないか。
5/7 6日、初めて施設に入っている父方の祖母の見舞いに行く。下半身が全く動かず、自力で立ち上がることができないため、日中はベッドの上で寝たきりだという。加えて、口腔の筋力も弱り、話している内容はかなり聞き取りづらい。 ただ、認知症的な症状はないようで、普通に会話をすることはできるし、聴覚は割合はっきりしているらしい。
祖母の老衰を前にして、典型的な感傷気分に支配されるということはなかったが、眼前の祖母という一個人に代表される、超高齢化社会の悲惨、というものを感じずにはおれなかった。
祖母の入る施設には、寝たきりの老人はそこまでいないということを、付き添いの父親からあとで聞いたが、老人ホームのみならず病院や終末医療の現場に於いては、数多の身体に不自由を抱えた高齢者が、丸一日を寝床の上で過ごすという苦行を強いられているだろう。俺の祖母のように頭のはっきりしている老人では、尚更その傾向が強いに違いない。
延命治療や尊厳死の是非は、しばしば生命倫理や制度の濫用といった問題とセットで語られるが、人間の尊厳を欠いた状態で、ただ動物的に生かされることの暴力や理不尽、あるいは反倫理性については、絶えず自覚的でなければならない、と思う次第であった。
あるいは祖母の顔が息子である俺の父親に酷似していることも印象的であった。 人は老いて死に瀕する時、個別性や時節の装飾がすべて削ぎ落とされて、最後には、祖先や子孫という血縁的な痕跡のみが残るのかも知れない。そしてそれはあんがい、寂しくはないのかも知れない。
5/23 ここ数日の寒暖差で体調死んでてワロタ、一応21のゼミの発表は終わらせたので、あとは引き続き卒論に必要な文献を読み込んでいくわけだが果たして上手くいくか…
5/28 依然として死亡中、寒暖差にやられたと思われる。最高気温20℃前後に落ち込んだと思いきや、急激に夏日、真夏日になるので死ぬのも予測できてたが。
ひさしぶりにシュタインズゲートを見返していたが、岡部倫太郎が19歳という設定を知り、ビビる。作中で未成年は酒を飲むなというセリフがあり、くわえて東京電機大の学生であるため、19歳の大学一年か二年ということになるのだろう。そして、牧瀬紅莉栖は18歳の高校三年、大学一年(秀才で飛び級しているので学年換算は無意味だが)なのだろうか。いずれにせよ、これを初めて観た時は俺も18-19だったかと思うが、今年で齢25になるにもかかわらずあまり状況に変化のないことに我ながら嘲りを感ずる。見返していて思うが、やはりこの作品は橋田至(ダル)によって支えられている。夏の秋葉原という舞台に加えて、矢継ぎ早に繰り出されるダルや岡部のねらー的ネットスラングが、この作品のモラトリアムでまったりとした基調を形づくり、視聴者に存在しないはずのノスタルジーを喚起する。個人的には、秋葉の無味乾燥な電気街とノスタルジーの奇妙な両立を味わえるというこの一点だけでも、幾度も立ち返る価値のある作品なのだ。
5/31 久々に化物語を見返したが、暦とひたぎの著名な初デートシーンで「こういうのでいいんだよ」となった。ひたぎの性被害未遂(あるいはこれに引き続く家庭崩壊)の経緯はそれ自体、たしかに陰惨きわまりないものではある。しかし、この履歴が意図せずして背景となり、彼女の「性行為が可能になるまで(暦に)待っていてほしい」という発言が、最高級の愛の告白として実を結ぶ。彼女の人生に暗雲をもたらした当の男性的欲望を、積極的に引き受けることを暦にたいして宣言する様に、不覚にも涙を浮かべてしまったほどだ(!)。
キャラクターの不幸を恋愛のスパイスにカウントするのは、いかにも典型的な方法論であるが、典型が典型として綺麗に成功するのを見るほど心地のいいものはない。同日に初見で見たCLANNADとの落差に開いた口が塞がらないと言いたいところだが、CLANNADの批判などネットをひらけば無数に転がっているため、ここでは省略しよう。またそもそも、この作品に関してはそのような情熱も湧いてこない。
6/7 今や地方の集落などでは、人間の数よりも熊の方が多いという話だが、数十年もしたらAI搭載のロボットの数が人間の数を上回るようになる。人間は人間を相手に恋愛することをやめ、セックスすることをやめ、これらは一部の変わった人達の趣味程度のところまでいく。その時代には、人間という有限の存在を相手取って恋愛し、子供を産ませ、ありふれた別れの結末をたどることの、非人道性や暴力性が強調され、AIとの恋愛こそが持続可能で、環境や人体にやさしく、倫理的であるという価値観が普通になる。いままでの人類が抱えていた人間関係上の悩みはそこで終止符を打たれる。互いに傷つけ合いながら、それでも離れずに関係を営むことの美しさや尊さは、完全に時代遅れの遺物と化して、現代の日本に於ける"腹切り"や"ゲイシャ"と同程度の郷愁でもって語られる。その時代にも恐らく、伝統的な価値観への回帰を訴える勢力はいるだろうが、われわれ人類はAIとの共存(共依存)の快適さや楽さを手放せないので、そうした連中を「イカれたカルト」と認定し、見て見ぬふりをするだろう。
人類は緩やかな絶滅の一途を辿ることになる。女に子供を産ませるのが暴力である以上は当然であるし、そもそも同意なく子供を誕生させることも暴力である。こうして人類はみずからが人類であることを否定する。人口比でAI搭載型ロボが人類を追い抜いて、最終的には、人類が一人残らず絶滅した後の地球で、AIのみがその稼働停止の時が来るまで、環境をメンテナンスし続けるだろう。
6/17 イケメンにクズが多いのは、クズであっても許されるのがイケメンであるからだ、というのが俺の以前からの持論であったが、これは訂正される必要がある。イケメン=クズの印象を吹聴するのが交際相手の女性である以上は、当然ながらその女性に個別的に観測される必要がある。つまり、観測されない普通かそれ以下の男性群は、そもそも評価対象にすら加えられていない、ということだ。したがって、イケメン=クズの等式に暗黙裡に含まれる、「イケメンでない普通かそれ以下の男性群は、性格に関してイケメンよりも誠実である」という命題の信憑性はかなり疑わしくなる。にもかかわらず、この命題が流布されてきた背景には、おそらく、それまでイケメンのみを選り好みしてきた女性の、非イケメンに対する願望の投影があるのだろう。非イケメンが己の容貌の欠落を埋め合わせんがために性格に磨きをかけるといったロジックが文字通りの幻想であるのは、他の誰でもない俺の存在が証明済みである。
6/22 昼食後の異常な眠気や怠さを軽減するためにここ三日ほど、昼食後の15分程度の散歩を試している。正直そこまで変化があるとは思えないが、やれるだけやっておこうと思う。
あと、最近は食後の胃もたれの症状が酷くなっているように感じる。胃弱は物心ついてからの悩みの種であるが、この歳になって輪をかけてその傾向が強まっているように思う。体力は落ちているし、二食目以降は殆ど頭は使い物にならないしで、もうすでに加齢のきざしを感じつつある今日このごろである。無職やニート、ひきこもりの問題の過半は、認知力を含めた体力の問題に還元されるのではないだろうか。九時五時で勤務するのが現代社会のスタンダードとされているが、それを問題なくこなせるだけのバイタリティを備える人間は、蓋を開けてみればそう多くないという事実は、もう少し広まるべきである。
6/29
昨晩、恥ずかしながら初めて映画マトリックスを観た。マトリックスのあらすじは解説するまでもないであろうが、作中ではマトリックスという人工知能の提供する装置に人間は胎児の段階から格納され、そこで人間は擬似的な現実を現実と思い込んだままに生涯を終える。マトリックスに格納された人体から発せられる熱エネルギーを養分に人工知能のシステムは稼働されている。人工知能に提供された擬似現実を拒否する反乱分子が数少ないながらに組織され、主人公のネオは組織からその資質を見込まれ、擬似現実のマトリックスから実際の現実へと呼び覚まされる。ここまでの筋書きからあきらかなように、マトリックスの擬似現実やそこで提供される仮構の幸福という世界観は、2026年の現代をアクチュアルに表象するものだ。人工知能やSNSが普及し、肉体的な現実からの離反の傾向をますます強める昨今の情勢は、マトリックスの世界観と同型のものだろう。マトリックスはその最終盤に主人公ネオがマトリックス・システムの監視役であるエージェントを超越する能力を獲得し、システムの支配への明るい叛逆の兆しが示されたところで、幕を閉じる。これはもちろん、人工知能に対する人間の想像力/創造力の優位を示唆する演出であるが、冷笑的な鑑賞者の一人を自ら以って任ずる僕は、こうした一連の展開を手放しで面白がることはできない。
マトリックスのリアリズムは途中で反乱組織を裏切り、システム側に寝返る髭の中年男の側にある。彼の印象的な台詞に「無知は幸福の源」といった旨の発言があるが、システムに支配されることを拒絶し、人間的な世界を再建設することを望む組織の意向に反して、彼は積極的にシステムの養分になることを望む。「幸福な豚よりは、不満足なソクラテスでありたい」という著名なフレーズを想起させるこの台詞は、そのまま現代人の人生観にも適用可能であろう。
仮に、現代において人工知能がさらなる発展を遂げ、われわれが生身の肉体でもって生活することが最小限で済むようになり、現世的な痛苦の一切から逃れ出ることが可能になったとして、それを偽物であるというただその一点だけを頼りに拒絶することが、どれだけの数の人間に可能であろうか。批評家の東浩紀が以前に、経済学者の成田悠輔との対談の中で、「シャットダウンできる関係を人間は愛と呼ばない」という、説得的かつ近代的な恋愛観を表明していたが、これを実際に実践できる人間が現在どれだけの数いるか、僕は疑問に思えてならない。
当然、マトリックスに格納された人間たちは、見せられている映像知覚体験が、擬似現実であることを知らないため、東浩紀の議論をそのままここに適用はできない。ただ、目覚めた後で、再びマトリックスに戻ろうとする中年髭男の行為は、そのまま東浩紀の議論と接続するものである(※ただ、中年の髭男は単にマトリックスに戻るのではなく、目覚めて以降の記憶を消すことを要求してもいるので、これを厳密に同じものとして扱うことはできない。現実にマトリックスを実装する場合は、必然的にそれが嘘であるという認識を伴う。この点で東の指摘はクリティカルなのだ)。この映画を観て、主人公ネオやその組織のメンバーに共感を示すか、あるいは途中、裏切りを企図し無惨にも殺された中年髭男に共感するか、いずれの人口が多いかで今後の世の中の流れを占うことも可能であろう。
また、これと同様の感想をクレヨンしんちゃんの劇場版「オトナ帝国」を観たときにも抱いた。オトナ帝国ではマトリックスの代わりに、懐かしい昭和期の街並みのガジェットが採用されているが、問われているテーマは一緒である。孤独で悲哀に満ちた現実に戻るか、それとも大人帝国の提供する昭和期の幻想に浸り続けるか。この映画では野原一家の勇猛果敢によって、オトナ帝国への逆襲が成功し、オトナ帝国に吸引された大人達は現実へと連れ戻される。僕の措定したマトリックス的なリアリズムをここに適用するのであれば、オトナ帝国から連れ戻されたことを苦々しく思う大人がいてもおかしくはない。野原一家の「家庭の幸福」というエゴイズムに巻き込まれて、過酷な現実へと目覚めさせられては溜まったものではない。僕は、そうしたリアリティを体現する大人が一切、描かれていないという点に、この作品の子供騙し性を認めずにはいられなかったのだ。
