エゴイズムと避妊不可能性

彼女に振られてしまった、付き合って3ヶ月と経っていない。その理由を問い訊ねると単刀直入に避妊をしてくれないからこれ以上付き合っていると更なるトラブルに発展しそうで怖いため別れたいとのことだった。そう、俺は避妊ができないのだ。避妊ができないというのは正確に言うと避妊をしたくてもできない、アレルギーとかでは決してないのだが、俗に言うゴム萎えの欠陥を俺は抱えている。最初に付き合った彼女とセックスするようになってから俺は自分のこの症状に気がつくようになった。前戯を一通り済ませていざ挿入するという段になったとき、あらかじめ用意しておいた避妊具を男根に装着するわけだが、この時点でたいていの場合男根は硬度を失ってしまい、膣内に挿入することが困難になってしまう。膣内に入れることができたとしても、わずか0.01ミリの薄さであるにも関わらず避妊具越しの刺激は男根の怒張を維持するに足らず、必死に腰を動かし摩擦量の増大を図ったとしてもすぐさま男根は挿入維持が困難なレヴェルの柔らかさに戻ってしまう。前の彼女は俺の所謂コンドームEDの疾患に理解があったのかはたまた頭が弱くて妊娠に対するリスクヘッジの意識が希薄だったのか今となってはよくわからないが、ピルを飲んでいる様子もないのに毎回生でのセックスを許してくれていた。もちろん射精は膣外である。その彼女とは避妊するしないに関係なく性格上の不一致から交際の破綻に至ったわけだが、今回の彼女はそれがモロに直接の関係破綻の原因として機能したようである。付き合った直後に俺はゴムをつけてセックスすることができないということを告白したことがあった。そのとき彼女は驚きというか失望の表情を呈して、ゴムをせずにセックスをする男に対するある種の軽蔑混じりの言葉を並べ、もし私と肉体関係を込みで交際を続けたいのであれば、治療するなりなんなりして欲しい、それが無理なら別れるときっぱり言われた。そのときは俺もそれに同意し、ED治療に勤しむ意志を示したのだが、結果的にはゴムをせずに何度か流れに身を任せて、なし崩し的に、彼女は避妊してと小さな声で要求したが、俺はそれに耳を傾けることなく、適当にやり過ごして、事に及んだのであった。その経緯があったから、俺は彼女が最初に付き合った元カノ同様、避妊に対する認識が甘く、なんだかんだは言いつつもやらしてくれるものだと自分に都合よく解釈してしまった。しかし残念ながらそうではなかったのだ。彼女は生でセックスするたびに妊娠の危険に恐怖し、また自己の欲望の発散ばかりに注意を払い、交際相手の身体的ないしは精神的な負担を一切顧みない、あまりに自己中心的な俺の性格に対して幻滅、失望、憎悪を抱いていたようである。当たり前といえばそうなのだが、俺はそういったことを意に介さず、恋愛経験が少ないのも手伝ってだろうが、女というのは案外生でやっても平気なのだという誤った価値観を獲得してしまっており、それを健全で健常で、至って清潔な彼女に対しても適用してしまっていたのである。しかも彼女は処女だったのだ。いま思えば処女を彼女が喪失する際、そのときももちろん生だったわけだが、男根を挿入し、行為に及んでいる最中、彼女は涙を流していた。俺はてっきり自分が長年(彼女は20歳である)守ってきた貞操を男に明け渡す際のえもいわれぬ感慨に心中が飽和され、わけもわからず涙を流しているのだろうかと極めて楽観的な解釈をしたものである。しかし、こうして関係が破綻した後にその解釈を訂正するならば、自分の処女喪失がこのような自己中心的、自己本位の男によって達成されてしまったということからくる恋愛幻想の破壊やそれにともなう悲哀や悲愴、あるいは自己憐憫などが原因として機能していたと考えねばならないだろう。
俺は彼女に電話で別れを切り出されその理由を聞いたとき、それなら俺は君と別れたくないから、これはあくまで君の非難の対象が、避妊具をつけないという限定的な行為にのみ絞られていて、なおかつ未だ俺という人間に対する恋愛感情が冷め切ってしまっていないという前提のもとでの話だが、俺は君のもつ妊娠リスクへの危機意識について極めて重大な誤解をしていたからそれを俺は今後は正して、ED治療に励むことを誓うが、それでもダメか?といった旨の返答をした。答えはむろんノーであった。彼女は俺の性格は面白いので、友達として仲良くし続けたいとは思うが、彼氏にするにはちょっと厳しいと言っているようだった。ここのところはよくわからない、完全なる絶縁を宣言されたわけではなく、あくまでも友達関係にもどりたいとの申し出であった。あるいは俺はこうも言った。普通はこういう場合、いきなり別れを切り出すのではなく、もっと段階を踏んで、例えば不満があるのであれば、それを表明して相手に訂正を要求するなりすればよいではないか、なぜそれをすっ飛ばしていきなり別れという結論に飛びついてしまうのか、それほど深刻な嫌悪なのかと。しかしそうではないと言う。それならば友達になろうとすら言わないと彼女は言った。ただ、彼女からすると、付き合った当初に自分が生でやることに対して抵抗を強く保持している旨を伝えており、これが段階を踏むことにあたり、そこから雰囲気に流されて生でやることを容認してしまったが、でも心の中では嫌で、いずれ俺がED治療をするなりして、避妊した状態でセックスしてくれるようになると一縷の希望を抱いていたらしいのである。完璧な解釈の相違、意図の齟齬が生まれてしまっている。さっきも述べたように俺は生でセックスできたという経験から帰納的にこの子は案外緩いんだという結論を導き出し、それに安閑としてしまっていた。彼女自身も、それはわたしにも責任があると言っていた。わたしは流されやすく相手の要求にノーを突きつけることが苦手で、それが俺によって首肯を意味しているかのように受け取られてしまい、それについては反省の余地があるといった感じであった。
全体的に何から何まで徹頭徹尾俺が悪いという印象だが、なんだかどうしようもなかったような気もする。俺は自らの恋愛経験の希薄から、はたまた単純なエゴイズムによる認知の歪みからか、女が男が避妊をするか否かによってどれだけ相手の評価を揺るがすか、についてかなり偏った認識をもっていたようだ。今後もし、彼女ができるようなことがあれば、もちろん俺はそれなりにクズなので、相手に低用量ピルの服用の打診をするが(というか今回振られた彼女にもしていた、そしてそれは嫌だと言われた)、そのうえで無理だといわれれば文句を言わずに、また今度のようになし崩し的に、雰囲気に身を任せて、相手の意志を有耶無耶にして事を進ませるような真似はせず、ちゃんと相手の精神と身体への気遣いを念頭において、ED治療に邁進し、交際継続を図っていきたいと思う。

さきほどこの元カノの写真を眺めながら、元カノとの生セックスの思い出を脳裏にたぐり寄せて自慰行為に及んだ。こういう習慣以前はなくて、元カノでオナニーする人の気持ちが俺にはよく分からんかったのだが、さいきんはAVや素人のハメ撮りにもかなり飽きてきて、リアリティの探求の結実として、ふと元カノとのセックスを思い出して、自分を慰めることが多い。その生々しい苦悶とも恥辱とも恍惚とも形容できないようなみだらな映像だけが、俺を興奮へと導いてくれるような気がするのだ。

思考雑記

モテたいってなんなのだろうと色々考えさせられる。不特定多数の異性から好意を寄せられるというのは男としての自尊心を向上させる上で甚だ重要であるには違いないが、モテはモテを更に加速させ、ゆくゆくはそいつ自身の魅力ではなく、モテているからモテている、みたいなある種のトートロジカルな状況に発展するだろう。
企業名とか大学名などで相手を品定めする恋愛アクティブ層の女性全てに共通して言える事でもあるだろうが、このモテているからモテている、という事象に対してモテの主体たる男は果たして満足感を得ることが出来るのだろうか。
結局は他人が欲しがっているものを欲しがっているだけではないか、本当の意味で自分という存在が評価、承認されている訳ではないという事実を否応なしに突きつけられるのが、モテ現象の行き着く先なのかもしれない。

 

嫌われたくないと傷つけたくないは、全く違うようでかなり似通っている。嫌われたくないが、純粋な利己であるのは誰の目にも明らかだが、傷つけたくないも、利他の薄いオブラートを剥がしていけば、見えて来るのは利己である。言うまでもなく両者に共通するのは自己愛、つまり傷つきたくないであり、これが肥大化すると、他者との触れ合いを避けるようになる。自己愛性人格障害の患者に、ひきこもりが散見されるのもこの辺りに理由がありそうだ。
僕たちは人とまともに触れ合おうとすればどうしても他者を傷つけるし、その事実によって傷ついてしまう。しかし傷つけ、傷つけられる事を恐れていては、人生のふくよかさは獲得されない。平凡な結論になってしまうが、自己愛を肥大化させず、かと言って減弱化させるわけでもなく、ニュートラルな状態に保って、他者との触れ合いに生じるであろうさまざまな、不安や恐れ、葛藤を乗り越えていくことでしか、幸せになる事はできないのだろう。

 

自己愛を守ろうとすればするほど、自己愛を傷つけてしまう。この現象は所謂メンヘラやヤンデレ、あとはひきこもり系の自己愛性人格障害者に顕著だろう。
メンヘラの束縛やヤンデレの自己の抑圧、ひきこもりの回避傾向は、実りのある人間関係の構築を阻害し、むろん自己愛は他者からの承認や評価なしでは成立しえないため、結果として自分で自分の首を絞める事となる。ちょうど、より良く生きようとして、或いは、死を遠ざけるために、リストカッティングを繰り返していくうちに、却って病理が悪化して、死に瀕してしまう人と同じように。

 

恋人関係に於いてどこまで相手の行動を制御するべき、或いはしても良いのかというのは非常に難しい問題だと思う。俺は昨夜この問題に実際直面し、自分の考える理想的な恋愛関係について、訥々とではあるが説明を試みた。
端的に俺の立場を示すならば、完全に相手の意志を尊重するという事だ。交際相手にこれして、あれしてとか逆にこれはしないでって色々と具体的に注文をつけて、行動を制御する人たちについては感情的なレベルでは理解できるのだが、しかしながら在りたい自己像、格好つけた言い方をすれば美学として、それらを要請することは出来ない、というかしたくない。世の中のアベックは程度の差こそあれ、何かしらの相互的な束縛関係にある。明確に言語化してルールを設けていたり、暗黙の共通了解としてノンバーバルな感覚を共有していたりと、その形態は多種多様であろう。別にそれはそれでいいのだが、その束縛関係が相互の自由意志、つまり自発性や良心に基づくものなのか、若しくは単に相手の要求に唯々諾々とお互いに従っているだけなのかで、大分その関係性の意味合いが変わってくるように感じる。繰り返しになるが、俺は前者を尊重したい。言うまでもなくこれは、自己の欲望を押し付けて、相手の行動を制限し、一過性で表層的な感情的安全の確保を図ったところで、そこには何らの価値も見出せないことが手に取るように分かるためだ。相手が自分の意志で俺のことを考え、想像し、献身し、場合によっては自己の犠牲を払ったときに初めてその行為に価値は宿る、少なくとも俺はそういう風にしか考えられない。一方でこうした恋愛観は一見すると相手の自由を認めているようで、反対に不自由を課してしまっているのではないか、という懐疑の念の入り込む余地もある。判然と言葉にして要求すれば、相手はそれにただ従順に従えば良い訳で、行動の是非を検討する思考のリソースを節約出来る観点からして、寧ろありがたいくらいなのかも知れない。
だけどまぁそんなに難しく考える必要はなくて、ただ単に君がやりたい事をやればいいよというだけの事なのだが、受け取られようによっては暴力として働いてしまいかねない思考の発露である事は否めない。

 

自分の抱くあるべき、またはあって欲しい彼女像みたいなものがあるとして、その鋳型に彼女を無理やり押し込めるような真似は極力したくない、彼女のあるがままの自発性、もっと高度に言えば内発性から来る、純然たる振る舞いの全てを受け容れて、それに随伴するであろう葛藤や苦悩、心理的なギャップと対峙、格闘しながら、それでも一緒にいたいと思えるような関係を育んでいけるのであれば、そこには自ずと至上の喜びが芽生えてくるはずだ。

 

愛玩動物を可愛がるというのは、幼児を養育する事の疑似体験だと言える。動物は幼児と同様、単純かつ無垢なので、飼い主の期待通りの行動をしてくれる。幼児が親の愛情の提供に素直に応えるように、動物もちゃんと世話して、餌を与えて、スキンシップを取り、散歩にでも連れ出せば、予想通りの反応を示してくれる。
でも人間はそう簡単にはいかない、幼児はやがて成長し、親の理解を超えた存在になる。よほどAC的な生育過程を経ていない限り、子供は親からして不気味で、理解不能で、アンコントローラブルな存在として認識される事になるだろう。だからそこで、動物が必要になる。自分が与えた愛情の分だけ愛情を返報してくれる、単純で簡単で操作の容易な存在、それが自分の心の喪失を再帰的に満たしてくれる。
これは人間の弱さの決定的な証明だと考えられる。うちの家の場合、母親には元からその傾向があったが、最近は父親までがそうした、愛玩動物を過剰に可愛がり、あたかも人格がそこに宿っているかの如く話し掛ける、不気味な、人形遊びをする大人に対して抱くのと全く同様の、嫌悪感を催すような振る舞いを呈するようになってきた。
母親は別によかった、俺にとって母親は唾棄すべき低劣な存在として、少年の頃よりカテゴライズされていたから。うちの家庭には家父長制的、或いは昭和の郊外家族的な、父親を重んじなければならないといった感じの雰囲気は殆どと言っていいほど瀰漫していないが、それでも多少なりとも、父親に対して、権威、精神分析的に言えばファルスだろうか、そんなものを認めていた。だから父親の母親と同じような言動をするようになったのは俺からすると、物凄く不愉快で、同時に寂しいものでもあるのだ。
そして自分はこうはなりたくないなとも感じた。俺は子供を持ちたいという欲望を現時点であまり持ち合わせていないが、仮に子供が出来て、それが自分の理解の範疇を超えた、訳のわからない存在に成長してしまったとしても、その埋め難い懸隔と格闘しながら、なんとかコミュニケーションを図り続けていきたいなと思う。そのためにはやはり、背中で語るというような、子供から畏敬される父親であるための努力が自ずと必要となってくるに違いない。

アスカ メンヘラ台詞集

2chのコピペで偶に見かけるアスカのメンヘラ台詞集をここにまとめておく。

「何であんたがそこにいんのよ!」
「何にもしない」
「私を助けてくれない」
「抱きしめてもくれないくせに!」
「私のこと、好き? 本当に、私のこと、好き?」

「ねぇ。キスしようか?」
「それとも怖い?」
「じゃ、いくわよ」
「何も判ってないくせに、私のそばに来ないで」
「判ってないわよ……バカ!」
「あんた私のこと分かってるつもりなの?救ってやれると思ってんの?それこそ傲慢な思い上がりよ!判るはずないわ!」
「バーカ!知ってんのよ、アンタが私をオカズにしてること。いつもみたくやってみなさいよ。ここで観ててあげるから」
「あんたが、全部私のものにならないなら、私……何もいらない」


「じゃあ、何もしないで。もうそばに来ないで。あんた私を傷つけるだけだもの」
「ウソね」
「あんた、誰でもいいんでしょ!ミサトもファーストも怖いから、お父さんもお母さんも怖いから!私に逃げてるだけじゃないの!」
「それが一番楽でキズつかないもの!」
「ホントに他人を好きになったこと、ないのよ!」
「自分しかここにいないのよ。その自分も好きだって感じたこと、ないのよ」

「・・・いくじなし」
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或阿呆の初体験

男は童貞であった、男は童貞を恥じていた、また童貞を正当な手段で捨てることの困難すらも自覚していた。男はツイッター援助交際を募集する女の存在を知っていた。男がツイッターの検索欄に、ハッシュタグプチやらサポやらのワードを入れて検索をかけると、数多の援交募集ツイートが出てきた。巨乳好きの性癖を抱える男は、Gカップをプロフ欄にて自称する一人の女に目をつけた。DMにて料金体制を尋ね、その日のうちに約束を取り付けた。勿論要求は本番行為であった。場所は新宿の某完全個室型ネットカフェ、話によると新宿や代々木、池袋に点在するこのネットカフェは売春の温床となっているらしい。完全個室で鍵もかかり、30分の利用料金がワンコインで済むという点で、援交女子やその利用客にとっては極めて都合が良いそうだ。男はシャワーを浴び、長い事切っていない蓬髪を整え、髭を剃り、包茎の内側にこびりついた悪臭を放つ物体を取り除き、小綺麗な洋服に身を包んだ。約2日ぶりの外出であった。

電車に揺られる事20分、新宿駅に到着した男は東口の改札を通過して、指定されたネットカフェを目指した。ネットカフェに到着した男はしばらく入り口にて待っていたのだが、居ても立っても連絡が来ない。男は不安になり、女のDMに再度確認の連絡をした。するとすぐに返信が来て、もう既に入室済みだという。男は緊張の面持ちで、女の待つ部屋のドアをノックした。すると出てきたのは茶褐色の肌でどことなくギャルっぽい雰囲気を漂わせた、人当たりの良さそうな女であった。女は笑顔で感謝の旨を伝え、部屋の中へと誘い入れた。先ほどまで不安と期待と緊張で内混ぜになっていた男のアンビバレンツな内心に若干のゆとりが生まれ、男は少し頬を和らげた。何をしたいかと聞かれた男はDMで予め伝えた通り、本番行為を要求した。それを聞いた女は現在生理であるがそれでも良いかと問い返した。男は質問の意味がよくわからず、それでも良いと再度返答した。本番行為の料金16000円を前払いした後、下着姿の女はブラジャーを脱ぎその豊満な胸を露わにした。生まれてこの方母親以外の乳房を見たことがなかった男はあまりの造形の美しさに狼狽し、正直性的興奮どころではなかった。乳房を拝み、触り、舐める過程において確かな感動がそこにはあった。あまり乳房ばかりに気を取られていても仕方がないから、女の主導で男は寝かせられ、予め購入しておいた避妊具をバッグから取り出し、女に渡した。女はなんの躊躇もなく、男の男根に避妊具を装着し、口淫によってそのフィット感を増大させた。初めての口淫に避妊具越しとは言え、興奮した男は、ここで初めて性的な欲動を覚え、男根は徐々に怒張の傾向を呈した。初め男は騎乗位を要求した。なにぶん勝手のわからない物だから、取り敢えず女主導でやって貰うのが手っ取り早いと考えたためであった。然しながら、先程の怒張も束の間、徐々にエレクトは減弱していき、騎乗位に耐えうる硬性を維持することが出来ない。難しいことを察知した男は、正常位にシフトし、今度は女を寝かせ自分が上に覆い被さる形をとった。正面で見ると可愛げのある顔も、仰向けになると、不思議な事に、よほど器量が悪く思える。仰向けの不器量な女を前にして、なんとか怒張を取り戻した男根を、再度膣内へインサートした。これにて男は一応の童貞の喪失?を果たしたのである。然しながらここからが問題であった。あれだけ夢見た挿入行為であるのにも関わらず、全く気持ちが良くないのである。安物の避妊具のせいなのか、女の膣内が使い古されているからなのか、よく分からないが、兎に角今まで夢想していた入れた瞬間のカタルシスのようなものは寸毫もありはしなかった。それに動きを加えても同様であった。また男は体力の消耗を感じた。腰を前後に動かして、男根に刺激をなんとか与えようとするが、その単純作業感、労働感、或いは義務感に早い段階で萎えてしまった。性行為とはここまで虚しく、辛く、倦怠な物なのか、なんらの感動と快楽もない、ただそこには無味乾燥なる単純労働があるだけだった。そして萎え切った男根を膣内から取り出してみると、男根を包む避妊具にはびっしりと生理中の経血がこびりついていた。性行為に対するロマンスの消滅に加え、初めて見る女の生理中の経血に閉口した男は尚更、性的興奮どころではなくなってしまった。

それ以降というもの、男のふやけた男根を見て気を遣った女は手淫へシフトし、なんとか乳首を舐めたりする事で、射精に至らしめようといじらしくも努力していたが、その健闘も虚しく、男の男根が怒張の回復を見せることはなかった。狭い、男女が二人寝るのにやっとのスペースで低い天井を見上げ、男は様々なことを考えていた。俺は一体何をしているんだろう、童貞を捨てたというのになんらの感慨もない、天井に映るのは父や母の顔であった、幼い頃の純粋な自分とそれを笑顔で育てる両親、そんな映像と現在のギャップがサブリミナル的に交差した。男が空虚感に浸っていると、もう制限時間が迫ろうとしていた。男は女の努力を断り、ただ一緒に横臥することを求めた。女の身体を抱くというのは気持ちの良いものであった。射精という男性としての有能性、献身性を放棄した、純粋なる依存は男の子宮回帰願望を刺激した。終了のアラームが鳴り、男が服を着ると、女はただ一言ごめんねと言った。男は情けなくなった、女を金で買い、その上娼婦の自尊心を傷つけたのだ。そんな自分が心の底から憎かった。女と別れの抱擁をした男はとぼとぼと無表情で、虚脱感に苛まれながら、そのネットカフェを後にした。

ネットカフェから帰宅後、男は即座に入浴し、自らの汚れを払おうとした。今更、キリスト教的な婚前交渉否定主義的な、純潔の精神などどこにもなかったが、それでも何故かあの女の匂いを、ネットカフェのあの暗鬱な雰囲気を、拭い去ろうとした。男根は安物のゴム素材の不快な臭いを放っていた。この体験で少なからず男が得られた事といえば、性体験の神格化からの脱却であった。男子校出身なこともあり、性体験と無縁な生活を送り、性体験といえばフィクションやネットの中だけのこと、それは本当に素晴らしいもので、この世のものとは思えないほど気持ちの良いもの、そういう幻想を破壊できたという点においては男は一つ賢くなったといえよう。また、自らがこの世で最も汚い手段で以って童貞を喪失したことは、男の処女信仰を希薄化させる事にも繋がった。以上のような収穫を自認することで、今回の愚行をなんとか正当化しようと試みる男であったが、その心にぽっかりと生まれた後悔や反省ともつかない、微妙な空白の扱いに困り果て、男はその日は早くに眠りについた。

自己紹介

俺は情けない男だよ、救いようのない、箸にも棒にもかからない程のクズさ。中学受験でやっと入った大学付属の中高一貫を高校一年で辞めてさ、高卒認定を取ったは良いものの、大学受験向けの勉強は殆どせず挙げ句の果てに受験を放棄、自動的に一浪突入。現役が独学で駄目だったから、一浪はペースメーカーの意味でも予備校に入ろうと思って河合塾に入塾したよ、しかしここでも上手くいかなくてさ、俺の薄氷の如き脆弱な意志に、親は満腔の期待を込めて前後期分の70万を振り込んで送り出したってのに、二週間も経たずして生活リズムの維持に失敗、自然と脚が予備校に向かなくなって現役時と同様独学にシフトしたんだよ。考えてみれば当然なんだが、現役時に自宅での独学に失敗したんだから、一浪になって成功するわけが無いんだよな、それでも俺は自分の努力の才能に一縷の望みを懸けて予備校に頼らず、チューターの電話も全て無視して、独力で学習を進めていったのさ。これが行けなかった、最初は良かったんだよ、ただ3ヶ月が経過したあたりから途端にガス欠して、1日の勉強量が急減、何もしない日が徐々に増えていった。ここからは容易に想像がつくだろうが、勉強しない日が増えれば増えるほど、知識の喪失量は大きくなる、つまり挽回に際しての労力も嵩んでいくんだよな。それが手にとるように分かるから益々やりたくなくなって、結果およそ受験生とは思えない怠惰で自堕落、非生産的な日常を送る羽目になる。この頃やってたことはなんだったかな、読書してたな。読書、俺は近代日本文学なんかをよく読むんだが、文学は便利だよな。娯楽としても使えるし、教養本的な一面もあるから、勉強してい無いことへの罪悪感を薄める免罪符としては都合が良かったんだよ。文学に失礼だよな、太宰や漱石に謝りたいよ。結局一浪時もこんな感じで読書と映画鑑賞に時間を浪費する毎日だったから、当然受験する気にならず、親に言われて半強制的に出願させられた東洋大の文学部すらも、入試当日、昼夜逆転が酷くて起きられず欠席したんだよ。勿論受かるとは親も思ってなかっただろうが、俺がその一年受験生であった証拠が欲しかったんだろうな、その一年に賭けた金や時間、或いは期待が全て水泡に帰したと親も認めたくはなかったんだろうな。本当に済まないことをしたと思ってるよ。で、二浪目、今年のことだな。高校卒業してれば大学入学はもう断念して就職するってことも考慮する状況だけど、いかんせん高校中退、つまり中卒だからどこも就職先なんかないし、家から追い出したところでどうにかなるものでも無いから、仕方なく親も二浪を認めてくれたんだ。それで今年は現役時、一浪時の反省を踏まえて予備校や自宅で勉強するのはやめようと思ったんだよ、だから早くから、と言っても4月からだが、有料自習室を借りて(これも当然親の金だが)勉強を開始したんだよ、これが割と良くってさ、まぁ単純に環境だけの話じゃなくて、今年はマインド的な部分でかなり変革があってさ、今までは実力の伴わない唾棄すべきプライドがあって、MARCH未満はクソだとか本気で思ってたんだけど、そんなこと言ってられない状況に追い込まれて初めて自分の等身大の実力を見つめられるようになってさ、身分相応の大学に行けるよう無理のない範囲で努力しようと決心できたんだよ。まぁ大学受験成功者、或いは高邁な志を持ち目標に向かって着実に努力できる勤勉な人間からしてみたら、自分に課すハードルを下げて努力を放棄しただけに見えるだろうし、実際そうなんだけどさ、努力の才能ってあるだろうし、あるかも分からないものにすがって2年も無駄にした訳だから、これは取り敢えず無いと判断して先に進んだ方が良いなと、妥協的かも知れないけど判断したんだよ。話は戻るけど今までよりも確実に1日あたりの勉強量は減ったし、意識も低いのかもしれないけど、一つ言えるのは継続性は担保できてるって事なんだよ。塵も積もればじゃないけどさ、1日10時間勉強したとしてもそれが3ヶ月しか続かなかったら、大学受験というフルマラソンでは戦えないわけで、それなら1日2.3時間と短くても良いから完走しようと、遅くても良いから亀としてやり遂げようと思ってるんだよ。どうかな?今の俺間違ってないよな?確かに全力を出し切ってない、本気で受験に向き合っていない感覚はあるんだけどさ、これが大学受験という競技において自分の持てる能力を最大限発揮する唯一の方策だと俺は信じてやまないんだよ。だから他人に非難されようと辞める気はないし、どんな結果に終っても受け入れるつもりなのさ。なんだか前半と後半でだいぶ文章のテンションが変わっているけど、大丈夫かな?ちゃんと読んでくれているかな、まぁ読んでいなかったにせよ、自分の内面を整理する機会と捉えて自己肯定する用意は出来てるけどさ。

家庭内争議のゆくえ

その日の夕食はビーフシチューであった。仕事から疲れた表情で帰ってきて、一度も座ることなく食材を並べた台所に立った母は、いつものように家事労働を全くと言っていいほどやらない父に対して愚痴をこぼしつつ、料理を開始させた。偶然仕事が休みで一日中リビングのソファーに寝っ転がりながらテレビを見ていた父は、多少の反省と悔恨があるのか黙っている。しかしながらここで息子である私が要らぬことを口走ってしまった。
「親父も一日家にいたなら、飯くらい作っておけばよかったのに」
この発言が争議の火種となった。息子という味方を得た母は愚痴をますますヒートアップさせて、父を攻撃する。自ら家事労働に従事することに面倒臭さと恥しさを感じるくらいのプライドを持つ父だから、この攻撃には流石に耐えかねた。
「じゃあ、外で食ってくればいいんだろう?そんなに言うなら作らなくていいよ」
私はしまったと思った。私が何も言わなければ母の攻撃が増大することはなかったし、それによって父が我慢と道徳心の作用の限界に達することもなかった。しかも発言者が私であることから、父母の怒りの矛先が私に向いてこないことも問題だった。成人を間近に控えた年齢といえども父母にとってはやっぱり子供であり、対等な関係ではない。蚊帳の外にいた部外者がいきなり現れて、火に油を注いだ形となってしまったのだ。父が出て行った後、母はシチューを作るために昨晩から用意していた食材を包丁で切り分けながら涙を流していた。
「あなたがアレを言ってくれてよかったよ、良いきっかけを作ってくれた。とんでもないエゴイストなのよあの人は。もう潮時かも知れないわ」
今までギリギリで支えてきたアンバランスなジェンガの楼閣が隙間風に吹かれていとも簡単に壊れてしまった。私は戸惑いを隠せずにいたが、遅かれ早かれ崩壊してたわけだから気にすることないんだと、自分を慰めつつ、自室にとぼとぼと戻って行った。ちなみにその日のビーフシチューは争議の勃発が功を奏してか、煮込み時間が普段の倍近くになったらしく、皮肉にも非常な美味に仕上がっていた。
それからというもの父母は全然口を利かなくなってしまった。所謂家庭内別居というやつであろうか。以前から彼らには家庭内争議勃発後の1週間程度を冷却期間とする、換言すればプチ家庭内別居のような習慣があったのだが、今回に限っては1週間などという短期間で済むようなものではなく、最終的なディボースが容易に想像できるほど本格的な分裂であった。私と母の生活は普段とあまり変わることなく、寧ろ母の精神的疲労が緩和されたためか、普段よりも健康的かつ弛緩的な様相を呈していたように感じる。然しながら父の生活は激変である。母の担っていた家事全般を放棄された必然として、食事は勿論のこと洗濯までも父は自分で済ますようになった。これにより自宅において父を目撃する頻度は、ポケモンにおける色違い遭遇確率に相当するレベルにまで落ち込んだのである。
そして後日、今後の父母の関係を決定づける事件が起こってしまった。母の入院である。詳しいことはよく分からないが卵巣のあたりに腫瘍があるらしく、放置しておくと悪さをする可能性があるため今のうちに除去しておこうという旨の手術らしい。生還確率はこの上なく高く安全性の担保された手術ではあるが全身麻酔をするため、家族の承諾を得る必要があり、その書類への署名を母は私に求めた。
母の入院期間中、私は震えていた。私にとって母と言えば、毎朝5時に起床して飼い犬の散歩に出かけ、それから御茶ノ水にある会社まで満員電車に揺られながら出勤、退勤後も通勤時と同じくラッシュアワーに巻き込まれ、帰宅したら座る暇なくキッチンへ直行し私や父の食事を用意する、1日のタスクを全て消化し終えてホッと一息床に就くのは大体23時頃だろう、そんな生活を現在の住所に越して来てから15年近くも続けている正に超人的な存在であった。その母が5日間もの間、入院という極めてシリアスな重大事を理由に家を空けるのだ、今まで旅行やら家出やらで家を空けたことは何度かあったが、それとはやはり何か違うのである。失敗可能性の低さから言って、街中で交通事故に遭うと同程度だ、心配する必要は微塵もあるまい、と頭では分かっていても、母の永遠の不在が確かな悪意を持ってこちらに忍び寄って来るのであった。
その一方で父は、母の所在を私に一切尋ねなかった。どうやら母から入院の旨は一切聞かされてないようである。大方また何処かへ友人と旅行にでも行ったのだろう、と推理していたに違いない。私との会話も
「いつまでひとり?」
「金曜まで」
ただのこれだけである。
私も隠していたわけでは決してない、「where is your mother ?」の一言さえあれば答えようと思っていたのだ。然しながらこれがまたしても私のミステイクであった。後から分かった事だが、母は父が心配するのを期待していたのである。ここで私が知らせておけば、夫婦仲の改善する機会を設けられていたのかも知れないのだった。
母のサナトリウム生活が無事に終わり退院を迎えたその日、母は私に父の動向を尋ねた。上記の内容を包み隠さず説明し、母の居所を聞くに聞けなかった男性特有の自尊や含羞にできるだけの理解を求めたが、母は心配よりもプライドや含羞を優先してしまう男の心理に甚だ失望した様子であった。
私はこの数ヶ月間、父母の関係の変遷を見つめ、20年以上の関係継続をもってしても消えることのない人間本来のエゴイズムに一抹の恐怖を感じた。愛情の喪失と言えばそれまでかも知れない。しかし彼等がもっと素直な心を、互いに伝えることが出来たなら、今のような破局を迎えることは避けられたかも知れないのだ。現在母は最も有利な内容でディボース交渉を行うべく、財産分与等さまざまな情報の収集に励んでいる。弁護士やディボース経験者の知恵も借りる予定だとか。父母の離合集散に容喙するつもりは寸毫もないが、ただ一点、私の学費についてだけは潤沢な資金の調達を心の底よりお願い申し上げたい。