【映画】リリイ・シュシュのすべて 考察

はじめに〜

現在、高校生の私は時期的に夏休みであるわけですが、私のような部活もやっておらず、交友関係も狭小で希薄な人間にとっては、不健全に過ごすことを強いられるような毎日です。

というわけで、この有り余る時間を消費する上で考えついたのが映画です。

元々、映画を観るのは好きで、夏休みなどの長い休暇に入れば習慣的に鑑賞します。

かなり冗長な久々の投稿になってしまいましたが今日、題材とさせて頂く映画のタイトルは「リリイ・シュシュのすべて」です。

この映画を最初に鑑賞した後、去来した“不気味な感動”これを今回はディテールまで把握し、理解の深化を図っていきたいと思います。

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さて、この「リリイ・シュシュのすべて」という映画のプロットを書いていきたいと思います。↓↓↓

中学で剣道部に入った蓮見は、そこで入学式で答辞を読むほどの優等生、星野(周囲からのイメージと主観的実像との相違に磨耗している)と出会う。そして夏休み、彼らと親密な友人何人かで沖縄旅行を計画する。沖縄旅行の最中で起こった様々な事件や家庭での問題が起因してか、二学期が始まった頃、星野は凶暴化し、驚くべき豹変を遂げていた。やがて、蓮見はいじめの標的になるだけでなく、利用されるようになり、万引きや援助交際等への加担を強要される。

そんな日常に鬱屈、悲嘆していた蓮見の唯一の救いそれは「リリイ・シュシュ」というアーティストの音楽を諦聴することである。また、自分が開設、管理する「リリフィリア」というリリイシュシュに傾倒する人間が集合する掲示板に心意を表出することでも、同じことが言える。その掲示板で蓮見は「青猫」というハンドルネームのユーザーと心理的に共鳴する。

急進的にエスカレートしてゆく、星野らの蛮行に利用され疲弊する蓮見は、リリイシュシュの音楽に安楽や解放を求めるも現実を甘受せざる得ない。後に、リリイシュシュのライブの開催が決定し、蓮見は青猫を名乗る人物との、対面を約束する。

以上が少し、ネタバレを包含したプロットです。

考察〜

冒頭に述べた“不気味な感動”は何かという点に着目して展開していきたいと思います。

僕が思うに、社会的には対極にあるとも言える星野と蓮見には、リリイシュシュというアーティストに心酔しているという点以外に或る、共通性が重要だと考えられる。

それは、精神の解放への渇望である。

また、この共通性は、援助交際を強いられている津田にも見られる特質でもある。

ここで確認しておかなければならない、頻出ワードがある。それは「エーテル」と言うものだ。劇中では、感性の触媒、特別なオーラのようなもの、また、リリイはエーテルの覚醒者という記述もあった。

僕が思うにリリイシュシュというアーティストは錯覚であって、本質はこのエーテルという触媒なのではないか。人間な元から持つ活力の源泉なるもの、それを意欲感などに転換する媒質。つまりリリィは無力な偶像だ。ライブでのインタビューを受ける、リリィに依存した自閉的なファンの様子がそれを物語っている。

劇中の掲示板の投稿にも見られる、リリィの存在を神格化することに対する批判。これがなかなか大きな要素であるように感じる。

これは多分、蓮見に教えてもらったリリィの音楽に感動したが、結局は何の救済にもならなかったという皮肉的な文章だろう。

リリィの音楽に依存し、欺瞞しても拭えない孤独感や絶望感。そんな現実と音楽の世界観に生じるギャップが星野の変質を幇助したかのように感じる。

もう分かるかもしれないが、さらなる深淵にある物語の根幹それは、リリイの音楽ではどうしても解決しない酷薄な現状を抱える少年少女。この第二の共通性こそがスペシャルファクターであるように思える。そして彼らは独力で解放を実現しようとする。

会社が倒産し、一家離散。いじめられっ子だったという過去も相乗してか、この状況から脱却し、解放されるべく暴力を身につけた星野。

援助交際に日々、憔悴し、自ら命を絶つことで解放を求めた津田。

星野は暗澹たる日常の主因である蓮見を殺害することによって解放を求めた。ここで重要なのは彼等が自発的に、解決のために行動を起こしたという点にある。

つまり、リリイの音楽という媒質は、感受性を鋭敏にし、あらゆる事象に対して繊細になり、心からの共鳴を実感することによって、時には精神の安定化を促進することもだろう。

しかし、現実は変えられない。触媒は触媒。あくまで現象を増進させるためのクスリに過ぎない。最終的に行動を起こすかは自分で判断するしかないというメタファーになっている。

リリイに対する盲信は、腐敗した日常の中では生きられない。 

最後に〜

この作品が本当にリアルな14歳を投影できているか?なんてことは甚だ末梢的な話だと思う。

しかし、現実と乖離した、凄惨ないじめや、生徒の関係などを利用して、ここまで寓意的に人間の孤独と虚無を如実に抱かせる映画は今まで観たことがない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【社会】現代教育の欠陥について

はじめに〜

久しぶりの投稿ですね、not foundです。

今回は、最近ハマってる欅坂46の楽曲から着想を得た、内容になっています。

 

子供の周囲にいる人間、それらに共通すること、それは全員が教育者的立場ということである。これは必然的に子供との軋轢を生む、大きな要因になるのではないだろうか。

教育者である人間は、総じて思春期特有の既成思考を更正、刷新し、経験則が根拠の継続的、長期的指向の性格を持った可能性や選択肢の縮小、淘汰といった政略をし、最終的な目標の誘導に帰結させる。

これらは、社会的に見たら絶対に正当な教育にあると言えるだろう。しかし、そこに子供の視点を介在させた場合、それは懐疑に一変する。主体性や自律性に富んだ子供は当然、意志の確立がされており、それは容易に揺らぎはしない。だから、柔軟性に乏しく、過敏な彼らからしたら、その正当性は伝わらず単なる自由の剥奪、理解の強要と解釈してしまうのである。

この不和、摩擦を解消する抜本的アイディアとして挙げたいのが、生徒個人に対する変形型の対話だ。

僕が思うに教員は基本的に無機質で、事務的な対応しかしていないのではないかと思う。社会良識を身につけさせるのが、達成義務でもある教員はそれを盲信し、一方的な教示しかできていないように見える。

それへの対策案である変形型の対話というのは、多様化する苦悩や煩悶の根源を協力的かつ真剣に解決してゆこうという姿勢のことだ。

日々、抽象的な強迫観念に追われ疲弊し、それからくる脱力感による消極性への大人からのバッシング。それに消耗しながら彷徨する彼らに最も必要なのは、最も不信な存在からの同意や共感ではないか。少し逸れるがこれらを象徴している出来事は多々ある。楽曲面で言えば、尾崎豊や最近の欅坂46だ。

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彼らを救済するような内容の歌詞が話題となり、脚光を浴びている。また、ドラマでは僕の奨励する鈴木先生。彼は上記の理想像かのような教員で、一般の教員とは違う視点で、生徒を観察し、機微に到達する。その功績が作用し、生徒からも全幅の信頼を寄せられており、副次的に生徒の行動をもコントロールできているというわけだ。

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以上のことから推量されるのが、第一目的が生徒の懐柔では、それは容易に看破されてしまい、逆効果なのではないかということである。また、同時に懐柔という不純な動機が底意にある相談など、生徒からしたら拒絶、忌避の対象でしかないことも明瞭になってくる。

 

ここまで文章化して来て、より確信に近づいたものが教員への信頼度の大切さだろう。

ここでの関係性が良好であればあるほど、行動は自然と自制されるのではないだろうか。

既存の凡庸で陳腐な教育手法からしたら、逆説的かもしれないが、これは確実に真理をついていると思う。教員側にも、今以上に介入できない保身や体裁という問題があるのも重々承知だ。

しかし、その同質的でマニュアルを復唱するような教育は、紛れもなく是正しなければならない懸案である。行動を阻止しているものを無視、払拭しろとは言わない。

だが、最高の資源とされる人材を、排出する機関において、私情は無力であるべきではないだろうか。

どうか、折に触れて交流の機会を設け、現存の機械的な冷遇が再考され、誠実な対応に改善されることを僕は、切に願う。

おわり。

【映画・小説】桐島、部活やめるってよ 考察

はじめに〜

 かなり前になりますが、神木隆之介主演の「桐島、部活やめるってよ」という映画がありました。僕は中学2年の頃、この映画に出会い共鳴、感動せざる得なかったわけです。

今回は、約一年近く熟成させた感想や、その理由を克明に述べていきたいと思います。

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(あらすじ)

舞台は普遍的な公立高校、ある日学園ヒエラルキーの頂点に君臨するバレー部キャプテンの桐島が部活をやめ、高度という基準を全否定するかのように忽然と姿を消す。集団で生活する上で必ず生じる格差、その格差こそが生徒の相対評価や、存在を決定づける基準であった。

そんな全能的な権限を桐島が放棄したことに、彼らは混乱、右往左往する。

自らを構成する根幹が揺るごうとしているからだ。言わば存立危機事態である。

しかし、桐島を取り巻く悩めるマジョリティの一方で普段と変わらず生活する、つまり格差という基準から逸脱している人間(言い換えると、ダサいとか、陰キャラだとかの周囲からの評価全てを突き返すほどの強さを持っている人間)がいた。それが前田たち映画部や野球部のキャプテンである。

この二者の混在する世界で起こる葛藤や衝突、動揺や嘲笑、そして確信。そんな幾多の感情が不器用が故に剥き出しになってゆく。

 

(評論)

 まず宣言しておきたいのが、僕がこの映画の主人公をほぼ東出昌大演じる菊池宏樹だと認識しているということ。

それは何故か、宏樹には共鳴せざる得ない要素があるからです。

彼は言わば桐島に一番近い存在だった、つまりクラス内の格差社会の頂点にいたわけです。

そんな全生徒の中で最も当惑している菊池にはとんでもない魅力があるんです。

僕はこの映画を見る時焦点を集中的に菊池に当てています、そのくらいの魅力なんです。

余談は置いといて、これは僕の推測なんですけど桐島は気づいていたんじゃないでしょうか。

この世界は格差という基準だけで飽和していないことに、絶対的なものが必要なんではないかと、だから一番近くにいた菊池は常に自分との相違に磨耗していたはずです。

だから「出来る奴はなんでも出来て、出来ない奴は何にも出来ない」という自己弁護的な発言をしたのではないでしょうか。

そして、菊池は前田たちに桐島との共通点を見出すんです、だけどここではまだ確信的ではなく、疑念の段階なんです。

小説では、格差という観点における自分の位置に甘えてしまう自分への嫌気や、周囲の前田たちへの侮辱や冷笑を軽蔑する(しかし、自分だってそうじゃないかと、その反感すら自嘲に)などの描写があり、しかしそこで行動に移せるような度胸もないし、そもそも自分が熱心になれるものも見つかっていない、だから今の自分で妥協してしまう、といった菊池の心の機微を繊細に描いていました。

そして、まだ脆弱だった彼の疑念を決定づける出来事が起きます。

「かっこいいよ」この一言で形容されてしまう自分の軽薄さに思わず涙を流してしまいます。

この未だ、自己の中で完結していた自分への疑念、それが客観的意見によって確信へと変貌を遂げたのです。

具体的な動機こそなかったが、グラウンドの風景を眺める姿や部活に出ないのにも関わらず野球カバンを背負って学校へ来る姿、これらが何よりの証拠だったのではありませんか。

練習に出なくてもいいから、試合だけ出てくれと言われるだけの野球部。

なんで未だ野球やってるんですか?とぶつける疑問。

部活に意味を求めてしまい、のめり込む彼らを不思議に思うと同時に羨望の眼差しを送る。

そう、菊池宏樹は“なんでも持っているけど、なんにも持っていない”のです。

ラストシーンはどうなるんだろう。

周りの価値観の強要すら、跳ね返す絶対性を見せられた菊池。

桐島を制止しようとするんだろうか、それとも不変的に過ごすのだろうか。

ゆく果てを描かないのは、やはり大人が人間の自律性や主体性の乏しさを知っているからではないだろうか。

 

やや冗長に菊池ばかり述べて、他が疎かになってる感覚がありますね。

この映画は群像劇という同じ時系列を複数人の視点から描くというとても、視聴側を客観的にさせ、その副次的効果で更に感情移入させるというのが特長であると言えます。

それには世界観の構築が必須で、普遍的な舞台や現実味のあるキャスト、そして台詞が大切なんです。

「人間関係は硝子細工に似ている。見た目はとてもきれいで、美しい。太陽の光を反射して、いろいろな方向に輝きを飛ばす。だけれど指でつっついてしまえばすぐに壊れるし、光が当たればそこら中に歪んだ影が生まれる。」

これは小説の一節で人間関係の張り巡らされた境界線を表している言葉です。

一見自由で平和的に見えて実相は、とても閉塞的で表層的な関係性。劇中、匂わせるシーンはいくつもありました。

昨今の青春ドラマや映画では絶対に伝わりきらない、青春だからこその陰惨さがあります。

そこをあえてフォーカスし、観客との一体化を図るこの映画の性格には驚かされました。

 

(何者との比較)

登場人物の年齢が少し上がって、就活生を主題とした何者と前作の相違について、少し述べたいと思う。

相違点に挙げられるのが、強制力の有無です。

前作での前田たちは好きなことに、好きなような熱中し、奔走してきました。

一方で菊池は目標もなく格差に依存した生活に嫌気がさしながらも、甘んじているという状態が持続していました。

しかし、何者ではこの二つともの生き方が許されてはないということでの、年齢による自由度、可能性の縮小が表現されています。

高橋優氏の「陽はまた昇る」のMVを見ればわかりますが、前田は映画を撮るのを卒業後やめてしまったのでしょうか、劇中でも将来について言及していますが、冷静に達観しているようです。

僕は二宮拓人と菊池は似ていると思います。

それは必死になれないところです。

それに付随してさらなる相違を述べると、惰性でも、不格好でも、好きでも嫌いでも、今やるべきことを“頑張らなければならない”ということです。

開かれ、与えられた可能性の利用期間は終わったのだ、と宣告を受けます。

条件という項目を削られた状態での、戦いに勝つためには相当の覚悟が必要である、と。

 

(おわりに)

自分は男子校の在校生なんですが、やはり共学は残酷なのではないか、と思い始めてきました。理由を挙げるとするとやはりヒエラルキーの選定基準として付加される、‘‘女子の目“という存在です。

この“女子の目“という冷徹な触媒は、クラス内格差を助長し上の人間にはさらなる厚遇を、下の人間にはさらなる無関心や劣等視をもたらします。

やがて世界はヒエラルキーに支配され、価値観や動機をも侵食し、格差を理由にいじめなどの卑劣な行動すらも正当化してしまう、なんてことが誘発し易い“温床”になります。

上記にあるのはデメリットですが、反対にメリットもあり、当然ですが共学は男女のヒエラルキーの価値観やそれを決定する暗黙の基準が混在しています。この二つは独立した関係にあるため、相互的に影響を及ぼしあい成立しています。

その効果として得られるのが、共伴もしくは抑止力です。共伴については上に述べました。

では抑止力とは。

これは単純で、男子の行動が女子の目によって制限されるまた逆も然りです。

僕は、二つの価値観が混在するコミュニティに自分を傍観者として設置したいという願望があります。

どっちが平和なんだろう、精神的な成熟度はやはり共学だろうか。

性別が一つしかない学校には、一つのヒエラルキーしか生まれない。

だから一つの風潮が抑止されることなく永続的な価値観という、より強固なものに成長する。

怖さはそこです。

この映画は登場人物と、自分とを照らし合わせてしまうという必然性を帯びた作品な訳ですが、ふと自分は誰なんだろうと考えたところ凄く中途半端で、言い換えると中庸的な人間でした。だけどそれがいいんじゃないかと思えても来るんです。

宏樹の理由のわからない不安や焦燥、実感せざる得ない虚脱や甲斐性のなさ。

そして前田のクラスの醸成された空気に圧倒され指弾されているという劣等感。

だけどそれを潰せるほどの強烈な意欲。

桐島のようにプレー出来ず限界を感じる風助。

同調圧力からの脱出を希求するバドミントン部の女の子。

これらは誰でも、通過してきた感情ではないでしょうか。

特定の人物ではなく、複数人から得られる共感。それらの集積がこの映画を素晴らしいものにしているんだと思います。

 

マジで必見です。涙という形では発露せず、暗い心の中で涙を流す、潜在的な感覚です。

 

*補完的追加文

文章中に世界という単語が頻発していたと思います。少し大袈裟かもしれませんが、過言ではありません、学生にとってヒエラルキー(同調圧力)とは戦争。それに支配された空間は世界同然なんです。

この考えは前田の撮る映画のセリフにも反映されています。

「俺たちは、この世界で生きてゆかなければならない」と。

 

 

 

 

 

 

 

 

【社会】いじめとヒエラルキーについて

はじめに〜

僕はお笑いを見るのが好きで、特にエンタの神様とか。拝見しているとドランクドラゴンのネタで「若者はなぜキレやすいのか」という学生討論を主題としたものに関心を持ちました。

少し自分の意見を展開、放出したいと思い当ブログを開設し、今に至るという訳です。

序論〜

まず、「若者はなぜキレやすいのか」という風化しつつある議題から着手しましょう。

(ここでの“キレる”はあまりにも安易な、正当な理由なく、行われる暴挙とも言える行為を示唆します。)

 私としては、若者がキレやすいのは、いわば当然の事象と言えます。

最大の要因は守るものがないからでしょう。

年齢を重ねるにつれ、体裁や外見を維持することが常になり、あらゆる行動に打算や摩擦が発生します。

ある程度の精神年齢に到達すれば、損得勘定が必至になる生物なのです、損をする可能性の方が圧倒的高い“キレる”なんていう形で激昂する人間=守るものがない人間であると言えるでしょう。

まぁ、例外的にそれを理解した上で‘‘キレる”を断行する場合もありますが、心証というあまりにも大きな対価を支払う覚悟を帯びた‘‘キレる”をするのはまず子供ではないです。

そうすると、結果的に親に守られ、学校に守られ、先生に守られ、社会に守られている全面的に依存状態である子供が傾向として強く見られるのは、当たり前の話です。

では、この実情を説明した上での改善策を提示していきます。

正直なところ、キレる人間を生成するか否かは人格形成に多大な影響を与える環境にかかってきます。

また、キレる人間は大半が先天性だと僕は思います、生まれながらに決定される性格は抗えない部分があるのは確かです。

そこで、処方箋となるのが環境とそれに付随した反省効果です。

キレる人間の集合体みたいなところに、その性質を持つ人間を投入すれば更に拍車がかかり、

非行や犯罪にまで進行する恐れがあります。

キレる人間は、自分がキレることで周りを黙らせることに快楽を覚え、キレることを利用していきます。しかしそれは、諸刃の剣で使用者本人に錯覚が発症するというものなんです。

その錯覚は、己の築いた虚構的で圧制的な関係に気づかず日常を過ごしていきます。

その先にあるのがいじめや孤独です。

勿論、いじめに遭わずに更正する人間もいます。

過去の横暴の観点から、いじめといっても物理的ないじめではなく、空気を作るいじめが多用されます。

民意を盾に彼等は空気を醸成し、察知させ精神的に追い込んでいきます。

最終的な帰着点としては対象者の反省と萎縮と同時に、終息するでしょう。

しかしこれは良い兆候で、極めて逆説的なのです。いじめを経験し更正する人間もいるということを知って欲しいですね。

 

本論〜

さて次は、『「若者はなぜキレやすいのか」に連関する学校に於けるいじめ』

序論の終盤で話した通り、結果的に功を奏すいじめも存在します。しかし、実際は真逆の場合が多いです。

いじめとは「集団の中で異物を発見し、それを排斥しようとする流れ」のことです。

発端は多様で容姿、経済力、性格など。

では、どう根絶するか?それは不可能です。

いじめを未然に防ぐなんていうのは夢想家の妄言です。何故なら発覚するのは起こってからですから、ストーカーのような実害の兆候なんて皆無です。

では、後処理はどうするのか?という話に論点を変えます。

これは私立公立で大きく対処法が変わります。

私立ならば退学という手段を学校側が所持しているため再三の、注意の後社会的制裁を下すことが可能です。

しかし、厄介なのが公立です。

私立は比較的家柄の関係もあり、いじめが生じにくい環境です。

環境的な問題もそうですが、退学という手段を講じることが不可能という点です。

いじめをしても無罪放免というわけです。

だから生徒も親とある程度のタカをくくっており無関心さが目立ちがちです。

いじめは一過性、よく言います。

しかしそれは刹那的だけど、深刻で陰惨な時間を普通に過ごせたら、の話です。

相手は対象のリアクションが見たいのです、それに抵抗すれば更に活性化します。

それは地獄のように我慢が蓄積していく毎日です。その蓄積の反映が不登校です。

相談しても、対処法がない公立には何の手立てもありません。(自殺でもして警察沙汰になれば別ですが。)

こうなると環境を変えるしかないのです。

可笑しい話です、原因はあるかもしれないが実行した人間を排除出来ないなんて。

ですから、危険因子を潰したいのであれば私立に入学させるのが適当かと思います。

ですが私立も万能ではありません、発覚していないいじめも当然あります。

何故私立を推奨するかというと、やはりリスキーだからです。

私立は、いじめをしたら退学になるという論理を生徒に植え付けます。

これが根本的解決になっているかと言われれば微妙なところですが、起きないことが最優先です。このような学習効果が得られるのは、洗練された私立の特権だと言えるでしょう。

 

結論〜

いじめっ子の深層心理とは?

では、元いじめっ子である僕の経験をもとに説明していきましょう。

これはヒエラルキーも絡んだ難題です。

いじめっ子は基本的にカースト上位です。

何故なら、民意の体現者だから。

心の底では、いじめに加担しているが体裁維持のために参加しない傍観者たちのね。

状況的にも社会的にも許されている、ここまでの条件が揃っているのにも関わらずいじめない理由があるでしょうか?

いじめっ子の思考はこうです。

「あいつムカつくな、いじめてやろう→独断はやめよう、みんなはどうだろう→許されているようだ、実行しよう」

決定権は常に実行者以外が所持しています。

しかし実行者は相当なリスクを背負っているので、それ相応の報酬もあります。

それがヒエラルキーです。

しかしそのヒエラルキーは麻薬です、当事者を錯覚させます。いわゆる正当化です。

学校では格差が全てです。その格差が自分を許しているならこれくらいの愚行は仕方がないことなんだ、と。

この悪循環の中でいじめは生存し続けます。

学園ヒエラルキーといじめの関係はとても密接だと僕は思いました、現に今ある地位を維持するためにいじめに及んでいた部分もあったかもしれない、

皆さん気づいているかもしれませんが、いじめっ子というのは不幸な人種なんです。

ヒエラルキーに依存しないと生きて行けないのです。

 

おわり

【補足】

いじめを解消する国家的な対策を一つ提示します。いじめによる自殺、最近散見されます。

その報道のあり方を変えるだけで、危機感を与えることが出来るのではないかということです。

遺書や父母の号泣、辛辣ないじめの内情。

これらをより克明に報道することにより、現実味を帯びさせいじめっ子への制止、そして未だ死んでいない生徒を救う手段になり得るのではないかと。

【感想】

正直、自分の稚拙さに驚きました。

次はもう少し整った文章を書きたいです。