【社会】現代教育の欠陥について

はじめに〜

久しぶりの投稿ですね、not foundです。

今回は、最近ハマってる欅坂46の楽曲から着想を得た、内容になっています。

 

子供の周囲にいる人間、それらに共通すること、それは全員が教育者的立場ということである。これは必然的に子供との軋轢を生む、大きな要因になるのではないだろうか。

教育者である人間は、総じて思春期特有の既成思考を更正、刷新し、経験則が根拠の継続的、長期的指向の性格を持った可能性や選択肢の縮小、淘汰といった政略をし、最終的な目標の誘導に帰結させる。

これらは、社会的に見たら絶対に正当な教育にあると言えるだろう。しかし、そこに子供の視点を介在させた場合、それは懐疑に一変する。主体性や自律性に富んだ子供は当然、意志の確立がされており、それは容易に揺らぎはしない。だから、柔軟性に乏しく、過敏な彼らからしたら、その正当性は伝わらず単なる自由の剥奪、理解の強要と解釈してしまうのである。

この不和、摩擦を解消する抜本的アイディアとして挙げたいのが、生徒個人に対する変形型の対話だ。

僕が思うに教員は基本的に無機質で、事務的な対応しかしていないのではないかと思う。社会良識を身につけさせるのが、達成義務でもある教員はそれを盲信し、一方的な教示しかできていないように見える。

それへの対策案である変形型の対話というのは、多様化する苦悩や煩悶の根源を協力的かつ真剣に解決してゆこうという姿勢のことだ。

日々、抽象的な強迫観念に追われ疲弊し、それからくる脱力感による消極性への大人からのバッシング。それに消耗しながら彷徨する彼らに最も必要なのは、最も不信な存在からの同意や共感ではないか。少し逸れるがこれらを象徴している出来事は多々ある。楽曲面で言えば、尾崎豊や最近の欅坂46だ。

彼らを救済するような内容の歌詞が話題となり、脚光を浴びている。また、ドラマでは僕の奨励する鈴木先生。彼は上記の理想像かのような教員で、一般の教員とは違う視点で、生徒を観察し、機微に到達する。その功績が作用し、生徒からも全幅の信頼を寄せられており、副次的に生徒の行動をもコントロールできているというわけだ。


以上のことから推量されるのが、第一目的が生徒の懐柔では、それは容易に看破されてしまい、逆効果なのではないかということである。また、同時に懐柔という不純な動機が底意にある相談など、生徒からしたら拒絶、忌避の対象でしかないことも明瞭になってくる。

 

ここまで文章化して来て、より確信に近づいたものが教員への信頼度の大切さだろう。

ここでの関係性が良好であればあるほど、行動は自然と自制されるのではないだろうか。

既存の凡庸で陳腐な教育手法からしたら、逆説的かもしれないが、これは確実に真理をついていると思う。教員側にも、今以上に介入できない保身や体裁という問題があるのも重々承知だ。

しかし、その同質的でマニュアルを復唱するような教育は、紛れもなく是正しなければならない懸案である。行動を阻止しているものを無視、払拭しろとは言わない。

だが、最高の資源とされる人材を、排出する機関において、私情は無力であるべきではないだろうか。

どうか、折に触れて交流の機会を設け、現存の機械的な冷遇が再考され、誠実な対応に改善されることを僕は、切に願う。

おわり。